10/4/25朝礼拝説教@高知東教会
ルカによる福音書6:37-42、ハバクク書2:4
「赦され人は生きられる」
イエス様が、あなたもわたしのようになれますよと言ってくださる。誰でも、とすら言って下さる。主よ、私もですかと天を仰ぎます。私の弱く貧しい愛を思うのです。愛に生きたい、イエス様のように愛したいと願いつつも、すぐに腹を立てたり、この人がこんなことをするのは、きっと何か理由があるのだと頭ではそう思いながらも、心ではぐるぐるあれこれ考えて、何でこの人はこうなのかと、罪人だと決めつけ裁いて胃が痛くなって。そういう愛のない自分が嫌で、赦そう、愛そう、祝福しようと、イエス様、赦します、愛します、祝福しますと祈り求めて、でもまた気に障ることをされてしまったら、また同じグルグルを繰り返して、何と私には愛がないのかと胸が苦しくなって。その私に、主が、大丈夫、それもまた、わたしの弟子であるあなたの修行のうちにあるがやき、幸生、愛の修練を積んでいこう、わたしがあなたを導きゆうがやきと言って下さる。そしたら、辛くても、イエス様の愛にすがれます。あなたの愛がなりますようにと祈れます。神様の十字架の道案内に頼れるのです。
ここで言われる、目が見えないというのは、心の目とも言えますし、その心に何がじゃあ見えてないのかというと、やはり神様が見えないのでしょう。その名を愛と呼ばれる神様が、そしてその十字架の愛が見えない闇の世界。クリスチャンと呼ばれる人でも、例外ではありません。キリストを見つめてなかったら、見えなくなってしまうのです。でも、だからこそキリストが、そのためにこそ来て下さって、わたしについて来なさいと、手を取って神様の愛に導かれる。だから、その手にすがって歩めます。それが神様の道案内であり、そこにイエス様を信じる信仰の世界が開けます。キリストを与えて下さった神様を信じる信仰の世界で、神様の愛を信じて生きられる。その愛が見えなくなった世界には、闇が染み込んでくるのですけど、その闇に神様は、イエス・キリストの愛の光を与えられ、道案内をして下さる。道を見させて下さるのです。
そこで、気をつけないかんとイエス様が言うておられるのは、愛の道でない、嘘の道、真実を覆い隠した仮面の道です。偽善者、と訳されたこの言葉。当時は仮面をかぶって素顔を隠し別人になって演技する、あるいはギリシャやローマの神の仮面をかぶって神を演じる役者のことを言いました。正しい自分を演じるのです。まるで神のように人を裁くのですけど、仮面の下には素顔が隠されているのです。自分の愛のなさ、至らなさ、汚いところは仮面で隠して、どうしてあなたはとか、あの人はと、人を裁いてはいないかと問われるのです。そういう道を歩きよったら、その先は切れていて、穴に落ちると心配されます。
当時の神の仮面というのは、すっぽり頭を隠すような仮面で、当然、視野が小さくなります。目の前の、ほんの一部分しか見えん仮面。隣にいる人すら、見えなかったのでないかと思います。愛すべき隣人をすら隠してしまう巨大な仮面、けれどその仮面自体は、おそらく見えているはずなのです。視野の狭い偽りの神を演じる仮面自体は、本当は見えている。自分の目からまず取り除かなければならない丸太というのも同じことだろうと思います。隣人の本当の状態すら見えない視野の狭さで、その隣人の目に手を突っ込むから、悲しくも傷つけてしまう他ない。
顔は、その人を知る玄関、入り口だと言われることがあります。まず大体顔を見て第一印象を持つのです。でも初対面の時ほど、猫や仮面をかぶっているのかもしれません。その人の顔を見ている自分もまた仮面をつけていたりする。だから、腹の探り合いのようなことになるのでしょうか(笑)。この人は信用できるかな、私に優しくしてくれるかなと。信用できそうだと思ったら、だんだん素顔を出していって、でも何かで傷ついてしまったら、きつく仮面をかぶって、で、どうなるかというと仮面をつけた者同士で裁きあって、あの人が悪い、いや、そっちが悪いと互いに罪人だと決めつけて、人も自分も傷つけて。
でも、そういう仮面の内側では本当はどうしてこんなことになるがやろうと悲しくて泣いている、そんな私たちにイエス様は、だからもう、裁き合うのは止めにしよう。だって嫌やろ、裁かれたら。だからまず、自分を傷つけ汚しているその罪の丸太を神様に認めて、ごめんなさい、私の汚い思いと行いを赦して下さいと取り除いてもらって、神様に赦しを頂いて、そしたら見えてくる赦しの世界に、愛の世界に、一緒に生きていこうよと、手を取り導いて下さいます。神の家族として一緒に生きていけるのです。そしたら、赦しの世界が開けてきます。聖書が神の国と呼び、さっき一緒に祈った主の祈りでは御国と呼んだ、神様の世界が見えてくる。私は仮面を脱いでよいのだと、自由が開けてくるのです。いじいじと捨てられない執着を脱ぎ捨てて、いらない丸太を放り投げ、イエス様、よろしくお願いします。狭い私の世界ではなく、あなたの愛の世界の中に私も連れて行って下さいと、主よ、私の愛の先生となって私を導いて下さいと、キリストの赦しの信仰に生きられる。こんなにも明るく広い世界があったかと、信仰の奥行きが広がるのです。
それはまた、与えるという世界でもあるとイエス様は言われます。逆に言うと、与えることができん世界は、先週も譬えで言いましたけど、小さな子供が自分のおもちゃを人に与えることができなくて、これは私の、これは私の、これは私のものながやきと必死にしがみついて、結局自分もその楽しそうなおもちゃで遊べないでつまらない思いをして、それでもかまんと怒っている、そういう世界と同じのような気がします。けれど、人となられた神様の、十字架で自分の命をすら与えられる世界では、そうか、あなたも与える世界に生きていくか、ようし、あなたの命に、わたしは溢れる恵みを与えようと。いえ、いえ、神様、私はそこまで与えていませんと言うほどに、いや、だってわたしは与えたいのだと、溢れるほどに恵んで下さる。でも逆に、いや神様、私は裁きに生きていきますと言うなら、そうか、じゃあわたしもあなたにそうしよう、そして、その世界がどんなに恐ろしい世界かを知ってもらう、本当に、それで生きていけるか、本当にそこに生きたいかと、厳しく案内をなさいます。そこまでしてもわからない罪の厳しさがあるのです。人間の厳しさがあるのです。自分の量る同じ秤で神様からも量り返され、こんな世界は嫌だろうと、神様は、キリストが与えて下さった赦しの道、愛を与えて生きていける道に、私たちを案内されるのです。
無論、人はそんなに、言わば、甘くはありません。ある説教者は、人を裁かなかったからといって、誰からも裁かれないで生きていけるなんて、そんなこと私は経験したことがないと言っていました(笑)。そうだろうと、皆さんも同意なさるのではないかと思います。神様は、私たちの本当の愛に報いて下さるけど、人はそんなに甘くない。でもだからって、やられたらやり返すの世界に、本当に生きていきたいかと言ったら誰だって生きたくはないのです。本当は、皆、自分を与えたい。愛を与えて生きたいのです。私たちの素顔は複雑で、与えたい、愛に生きたいと願う反面、たとえ奪ってでも自分の為に生きたいという欲望がある。愛が歪んだ自己愛になって、でもどこかで愛がすすり泣いていて、それは愛じゃないろう、それは罪やろうと言っていて、でも、それを仮面で隠してしまって、人を裁いてでも自分は正しいと、歪んだ正しさを押し通そうとする歪んだ人間の罪の世界。
そんな愚かな正しさにしがみつく私たちに、神様は深く心を痛められ憐れまれ、これが本当の正しさだ、これが本当の愛の裁きだと、十字架を与えて下さいました。私たちの汚い罪を全部身代りに引き受けて裁かれて死んでしまわれる救い主キリストを与えてくださいました。あなたにすべてを与えると、そしてキリストによってあなたに新しい命を与えると、救い主を裁きの死から復活させて、裁きはわたしが終わらせたから、あなたは愛に生きてよい、生まれ変わって生きてよいと愛の勝利を下さった。それを聖書は言うのです。神は愛です、神は愛なりと。
清和の前に、神は愛なりと刻んだあの岩を置いた方は、祈りを込めてあの岩を置いたと思うのです。朝ごとに、新しい学校での一日を始めるその最初のところで、神様が、わたしはあなたを愛しているよと言って下さっているのを聴いて、そこで神様の思いを深呼吸するようにして、一日を始められるようにと、そういう祈りがあったのではないかと思います。この愛を胸一杯に吸い込めば、よし、やっていこうと思えます。愛の痛みで胸が苦しくて、そんなに一杯吸い込めない、ちょっと吸い込んだら、もう一杯になるぐらい胸が苦しいという試練の時も、その少しの一杯をすっと吸って、その息でイエス様って祈ったら、何とかやっていけるのです。そんな小さな愛の奇跡を重ねながら、教会は、今までもやってきましたし、これからも、イエス様を信じる恵みの世界に改めて驚きながら前進します。私の人生というものは、こんなにも大きな秤で量れるのかと、神様が、あなたの人生は大きいと、与える人生は大きいと、こんなにも喜んで下さっているのかと、与える人になれるのです。そうやって神様の愛を証して、キリストの赦しを皆で仰いで、道案内をするのです。誰でもここに来なさいと、ここに救いがありますと、十字架でイエス・キリストが招いてくださったこの愛に、皆で生きていけるのです。