10/5/2朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書6:43-49、イザヤ書55:8-11 「神言こころに良し」

10/5/2朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書6:43-49、イザヤ書55:8-11

「神言こころに良し」

 

随分前になりますが、重たいスーツケースを引きずるようにして駅の階段を上がっておった方が、ちょっと忘れましたが、スーツケースを落としたか、あるいは壊れたかで中身が全部バラバラバラと出てしまい、中に何が入っているのか全部丸見えで、その人が、ものすごい形相で片付けておった光景を見たことがあります。同じように、人の口から出る言葉や行動から、その人の人としての中身が丸見えに出るとイエス様はおっしゃいます。人そのものが、あるいは人格が、言葉や行動からわかってしまう。

そうして溢れ出た良いものや悪いものは、では、どのようにして心の倉に入ったのでしょう?例えば倉の中で育ったキノコやカビにしても、やはりその菌を中に入れたから、そこで育ったに違いありません。言葉はどうでしょう。行動はどうでしょう。どんな言葉を聞くか、どんな行動や生き方を見て育つかが、後々の人生を作り上げます。特に子供たちは親が気をつけてないと、漫画やTV、映画に音楽、知らずにその世界の菌を吸収してしまい、心の倉自体が感染されます。昔から言われる、習慣が人を形成するというのは本当です。継続は力なりという格言も、習慣の力を言うのです。無論、環境問題だけではありません。その中で自分で選んでもいるのです。何を選んでいるのでしょうか。何が刺激的に目に映り、何が魅力的に聞こえるか。どうしてそれが魅力的に思えるか。心がそれを選ぶのです。私はどうしてこういう行動をとって、こういう生き方をしているのか。心の中身がそうだからです。その心、あるいは人格、その人の本当の自分探しは、それぞれ自分の結ぶ実によってわかると、主は言われます。

人は、それぞれその結ぶ実によってわかる。この人はどういう人だろうと見極める、特に指導者を選ぶときには、大切な見極めの急所です。政治家だけではありませんけど、口だけの言葉、約束、マニフェストは意味をなさない。生活でその人がわかる。前の首相は典型でしょうか。庶民の生活を気にしていますと大衆居酒屋で飲んだ後、高級バーで飲み直す。それでは国民はついていけない。約束よりも行動だと、私たち、本当は知っているのです。この人は信用できるかできんか。じっと生活を見ているのです。

けれどイエス様のこの御言葉を聴いて、これは他人のことどころではない、私がそうだと、襟を正して聴いた人も多いと思います。ここ十数年ほどの流行で、自分を信じろという菌が飛び交いますが、自分の結ぶ実は、信じられるか。私はどんな実を結んできたか。そう自分自身に問うてみて、大別すると、悪いことばかり思いつく人と、良いことが思いつく人とに、ひょっと分けることもできるのかもしれません。あるいは記憶のカバンからバラバラと出てきた悪い実を打ち消すように、ほら、こんな良いものも持っていますよと、自分に見せるようにして、カバンの底から見つけるということもあるかもしれません。結局、自分だけで判断をするのは難しい。人を判断する時もそうでしょう。自分の好みで良い悪いを決めてしまうところがあるのです。教会も例外ではありえません。例えば先週、四国教区の総会の場でも、聖餐式執行をどうするかの問題にからんで、真剣な討論がありました。ある意味、わざと複雑にされた問題でもあったので、対立する意見が複雑に衝突し感情的になる場面もありました。そうだ、そうだと拍手が起こったりもするのです。拍手が多いほうが、では正しいのか。皆が、そうだ、そうだと言っているから、その人は信用できるのか。

イエス様は、いや、その人の結んでいる実によってだと言われます。わたしの言葉を聴いて行って、永遠に残る実を結んでいるかどうかだとおっしゃるのです。特に弟子たちに向かって言われます。わたしを主よと呼ぶなら、わたしの言うことを聴いて欲しい。わたしはいい加減なことは言ってないし、自分のための言葉でもない。あなたを思うわたしの言葉は、十字架と復活の実によってわかるだろう。わたしを主よと呼ぶあなたの言葉も、どうか口だけにしないで欲しいと、主は、私たちの心の倉に訴えられます。この言葉をこそ、心の倉に入れて欲しいと。

聖書の言葉は、単に正しい言葉ではないですし、正しいから信じられるのでもありません。それぞれが私自身の体験として、これは神の言葉だと信じたら、もう信じざるをえんから信じるというのが近いでしょうか。イエス様は、私の罪を赦すため、人となられ十字架で死んで下さった私の神様だと、まず神様を信じているから、そのイエス様のお言葉に従おう、行おうと思うから、神の言葉として聴くのでしょう。でなかったら、自分の好みで聞くことになります。これは良い言葉だ。これは私には都合が悪い。それは神の言葉の聴き方にはなりません。だから聖書にどんな言葉が言われているか一言でまとめるなら、神様が、わたしを知って欲しいと言っておられる。それが聖書だともいえるのです。話をする、誰かと対話をするってそういうことでしょう。例えば誰かと仕事の話をするときであっても、その仕事に本気で取り組んでいる人の言葉には、その人の人格が宿ります。軽く聞き流されたくはないでしょう。別に熱く語り合うわけでなくっても、誰かと話をした後で、あれ、この人はさっきの話を聴いていたのだろうかという行動を取られたら、悲しくなることがないでしょうか。この人の心の倉に、さっきの言葉が入ってないというより、この人は、私を受け入れてくれてないと思う。

神様も聖書によって語られます。日々の生活の中でも語られますが、あまりにも誤解をされ易いので、そういう場合、私たちも手紙で気持ちを届けるときがあります。はっきり知って欲しいのです。私が今どんな思いでいるか。どんなにあなたとの関係を心にかけているか。どんなに愛しているのかを、神様も私たちに知って欲しい。150年前、哲学者キルケゴールが、聖書は神様から私たちへのラブレターだと言った。神様がその全人格をかけて私たちへの愛を語っておられる。それを聴き取る聴き方を、イエス様はここで、地面を深く掘り下げる聴き方だと言われるのです。地面を深く掘り下げて、そしたら地面の下に岩が見つかる。表面的な上っ面・情報だけの言葉ではなく、その下に、必ず人格が見えてくる。人との対話でもそうですし、神様との対話なら尚更です。この言葉は、イエス様が全人格をかけて語られた、十字架の愛の言葉であると、イエス様の人格を掘り当てるように聴くためには、自分も人格をかけないわけにはいきません。対話ってそうです。聴く耳にもまた人格が宿る。好む好まないというレベルではない。生きるか生きないか、愛するか愛さないか。そこに自分の人格がかかってくる。そうして響いてきた言葉の上に、私はこの言葉を信じて、イエス様を信じてこれを行おうと、ここに確かな家を建てようと、決断と行いが伴わないはずがないでしょう。そしたら人生がその御言葉の後をついていくのです。

愛の言葉はいつだって、いい加減な言葉ではありませんから、時には耳に痛いこともあります。忠言耳に逆らい良薬口に苦しと言いますが、人格の宿った耳と心は、それでも薬だから飲もうと思う。良いとわかっているからです。口には苦いが命には良い。良い命を生きたいと、本気で願っているから、罪の宿る肉は御言葉に逆らっても、心は聴きたいと欲している。それをイエス様は、良い心の倉だと褒めて下さるのです。良く生きたいと願うからこそ、人格をかけて聴く。人格をかけて聴いているから、聴いただけでは終わらない。必ず行いにつながっていく。どうすれば人を愛せるか。イエス様の如く愛の人として生きていけるか。どうしたら主が喜んで下さる愛の人生を生きて死ねるか。与える人生をまっとうできるか。そうやって主の御言葉をじっと聴く人の家は、例え涙が洪水のように流れることがあっても、それに流されることはないのです。その人生は残るのです。死んでも残る永遠の家を、キリストが、私たちの人生の一番の底辺から、全部支えて下さるのです。十字架で私たちの罪を背負って死なれ、陰府にまで下られて苦しみぬかれた主が、私の罪も失敗も後悔も、全部担われて復活されて、あなたの人生はここに建っている。わたしは復活であり命である。だから信じて生きたら良いと、イエス様を主と呼んでついていく確かさを与えて下さっているのです。だから私も人生をかけ、一度しかない人生をかけて、イエス様を信じて歩んで行けます。主の弟子として生きられます。キリストが支えて下さっているから、与えても尽きない愛の実を、信じて歩んで行けるのです。