10/12/26朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書12:49-53、ミカ書7章1-7節 「キリスト灯りて」

10/12/26朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書12:49-53、ミカ書7章1-7節

「キリスト灯りて」

 

キリストのご降誕を祝って間もないのに、何か、えらい不穏な響きのある御言葉やと思って聞かれた方もいらっしゃるでしょうか。確かに、不穏な空気の漂う、穏やかでない主の御言葉です。平和の君として来られた主イエス・キリストが「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」とおっしゃるのですから、何かこう、イエス様~と抱きつきに行ったら、ハッとよけられて、肩透かしをくらい、ついでにはたき込まれて土俵にばったーんと倒されてしまうように思われるかもしれません。

でもここで、イエス様ご自身も、苦しんでおられるということは決して見過ごしにできないことです。主ご自身が、ここで闘っておられる。旧約聖書のヤコブのごとく、父なる神様と相撲をとっておられるかのような救い主としての闘いを、苦しまれつつ悩まれながら、弟子たちに、その苦しみを打ち明けておられるようでさえあります。

ここでイエス様がおもに語りかけておられるのは弟子たちです。群集もまわりにおったろうと思いますけど、その群集に向けて語りかけられるのは、この次の54節からでして、まだこのときには弟子たちに語りかけておられます。弟子の訓練をされているところです。厳しい語り口にもなるときもある。じゃあこの後で群集に語りかけられるときは、もう少し優しい柔らかな口調になられるかと思ったら、偽善者よ、と言われるのですから、ありゃ、イエス様、厳しいですねえと思います。でも、そうでも言わんかったら、届かない壁があるのです。救いの福音を聞いても神様に立ち返ってこない人間の厳しさがある。御言葉が不穏に響く原因は、むしろ私たちの側の厳しさにある。

そもそもイエス様は、家族を分けるとは言われません。「分かれる」と言われます。まるで選挙のときに、私は~党、俺は~党と、分かれるように、別に誰に命じられたわけでもないのに、しかも余り穏やかでない分かれかたをして、何で、そんな党を応援すらあとか、けんかになることさえあるかもしれません。イエス様は、そんな穏やかでない分かれ方をしなさいとは一言もおっしゃらんのです。むしろ謙遜を教えられましたし、後のパウロの手紙には、姦淫以外の理由で信者の側から縁を切ることはまかりならんとも命じられます。分けることが御心ではないのです。キリストが来られたのは和解のためです。和解の福音を説かれたのです。なのに人間は自分の主張を押し通し、家族が分かれるということがある。些細なことですらそうでしょう。例えばたまの外食に出かけるときに、絶対うどんという者があれば、別の誰かが、ラーメンと言う。そこに私まで乱入して、カレーと言うと収まりがつかんなるのでグッと黙っているのですけど、大体は誰かがすねることになる。楽しい外食が楽しくなくなると嫌なので、何とかなだめ、一方にこらえてもろうて、じゃあ、うどんねとお店にようやく近づいた頃に、やっぱりラーメンでえいとか言う。私は一度お腹がうどんにセットされたら、リセットできん性質でして、何でもっと早よう言わんと、結局私が一番平和を失って収まりがつかんなっている。それってうちだけでしょうか。

弟子たちもそうなのです。イエス様は、弟子たちにさえ思いをわかってもらえない。神様の御心を、察することのできん鈍さがある。こと、神様の救いということに関しては、人間は、油断ならない鈍さがある。心が湿っているとも言えるでしょうか。過ぐる待降節ここにありましたロウソクに火を灯すとき、芯が湿っておったら火が灯らない。朝の礼拝が終わって火を消すとき、私は煙が出るといかんので、最初、残り火を指で揉み消しておりました。が、やはり熱い。かっこつけて大丈夫ちやとか言っておっても、火傷するので、指を水につけ火の上から垂らして消すようにしましたら、次、夕礼拝で火をつけるとき、つかんのです。中々つかん。それでも頑張っておったら、ジバジバヂバヂと何かはじけるような音がして、ちょっと身を引きました。きっと蒸発した水と蝋が融合してえらいことになっているのかと思いますが、ロウソクがまるで犬がウ~と歯をむいて威嚇しているように、私は火なんかつかん、意地でも抵抗してやると。そうした不穏な心の湿りが、弟子たちにさえあるのです。キリストの灯火を、心の芯にいただけない鈍さがある。

でもならばこそキリストは、そんな私たちの只中に、ご自身の火を、神様の救いの火を投ずるために来てくださいました。その火が既に燃えていたらと願われつつ、私たちへの燃えるような思いを抱きつつ、神の御子が私たちのところに来られたのです。心の鈍い私たちが、それでも神様の火をいただいて、その火に照らされて歩めるよう、神様の御心に生きられるようにと、私たちを照らす火となって来てくださった。

先のクリスマスイヴ礼拝で二人の人に点火の務めをして頂きました。席に座っている一人一人のもとに、火を投じてまわる。それはキリストのお働きを模したものであるとも言えるのです。そこにいる一人一人に特に何か尋ねるということはいたしません。あなたは今年一年良い子でいましたかとか尋ねません。悪い子であっても、罪人であるならば尚のこと、キリストはその私たちのもとに神様の救いの火を投じに来られ、この火をあなたの内に灯しなさいと、ご自身の命を、神の子としての光を灯してくださるのです。ろうそくの芯が湿っていて中々つかんでも、あるいはジバヂバヂバヂと抵抗しても、そこにキリストは来て下さって神の子の火を投じてくださる。わたしが来たのは、あなたに火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることかと、熱い思いで、私たちのかたわらにいてくださいます。

私たちの灯火は燃えているでしょうか。この前の35節で主が、灯火を灯して、神様の救いの御業が完成するときを、神の僕として待ちなさいと命じてくださった。その灯火を灯しているでしょうか。キリストに、その火が既に燃えているのを見られる人は幸いです。幸いな人になってほしいと主は願われて、私たちを熱くご覧になっておられます。

そこで主は、「しかし」と言われる。しかし、というのは、今言ったことが、しかしと、ひっくり返される接続詞です。その火が既に燃えていればとイエス様は願われるのだけれども、どんなに願っていることかと言われるほど、強く強く願っておられるのだけれども、しかし、じゃあ燃えていないのか。ほとんど消えていて、火をつけようと幾ら願っても湿っておって、鈍くて、抵抗があって、あるいは逆に、神様が願っておられるのとは異なる炎を人間は燃え盛らせ、勝手な火を投じて、地上を焦がして、天に不快な煙をのぼらせているのか。戦時中この御言葉から語った一人の説教者は、まさしくそうだと言うのです。キリストが投じられたのではない人間の戦火が地上のあちらこちらで燃え上がり煙を吐いている。人間はこの火をずっと燃やしている。それなのにキリストが持って来られた火は気に入らない。互いに死に至る火を投げつけあって罪の炎は燃やしても、人を生かす火は拒否をする。ならばイエス様は、わたしはあなたがたの内に火を投じに来たのに、それを死ぬほどに願っているのに、しかし、その希望は失望に終わったと言われたのでしょうか。それがわからないようなあなたがたは、わかるまでもっと苦しめばよいと言われたのか。

断じてそうではないのです。キリストは、しかし、わたしには、受けなければならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろうとおっしゃった。洗礼と言ったら、罪の赦しの洗礼に他なりません。既に洗礼者ヨハネによって、罪人の代表として受けられたあの洗礼を、しかし、主は、わたしはまだ受けきっていない、まだそれは終わってない、十字架で、すべての人の罪の裁きをこの身に負って、全部担い切り、終わらせてしまうまで、わたしの苦しみは終わらない。しかし、わたしは、これを終わらせるために来たと言われるのです。十字架で神様と人との断絶を終わらせてしまうため、人が罪あるそのままで、しかし、キリストを信じて結ばれて、洗礼を受けて神の子とされ、キリストの光に照らされて生きるため、わたしは世の光として、救いの火を投じにやって来た、あなたにその火が燃えていることを、わたしは切に願うと言われるのです。

主は、地上に神様の救いの火が燃えてないことはご存知です。だから裁きに来たというのでなく、だから裁かれに来た。わたしがあなたがたの代わりに裁かれるから、だから、この火を受けて欲しいと願われた。ここに私たちに与えられた洗礼の恵みもあるのです。キリストが私のために裁かれ死んで下さったから、父は私の罪をキリストによって赦して下さった。その救いの恵みを信じますと告白するのが洗礼です。そこに私自身を、キリストの火を灯す灯心として差し出して、キリストの火を灯していただく。私の人生にキリストご自身が灯って下さる。

先に、イブ礼拝のとき、二人の人が火を灯しながら一人一人まわるのは、キリストの救いの御業を模しているのだと言いました。でもそれはその二人だけがイブ礼拝だけに行うことではなく、洗礼を受けたら、そういう命を生きるようになる、世の光と呼ばれるキリスト者の歩みをもそのことは映し出している、模しているとも言えるかと思います。人生にキリストを灯した一人一人が、キリストがそのために来て下さった、けれど、まだその火を人生に灯してはおられない一人一人に寄り添いながら、その人生のかたわらに、キリストの火を灯しつつ生きるのです。主が悲しみをもって、けれど肝に銘じておきなさいと言われたように、対立されることもあるかもしれない。涙することもあるかもしれない。それでも、その流す涙は、キリストの火を消してしまうどころか、一層そこでキリストの愛の火を明るくすることを、そしてその明るい灯火をご覧になられるキリストご自身が、あなたは幸いだと言って下さることを私たちは信じてよいし、そこにキリストの慰めもあるのです。異なる火を投げあって生きるより、慰めあって生きることができる。そのためにキリストが来て下さったと、主の慰めの火を人生に灯して、今日も、弟子として遣わされて行くのです。その道をキリストが照らし出していて下さいます。この恵みの火は、決して消えることがないのです。