10/12/12朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書12:35-48、詩編123篇1-2節 「主は来ませり」

10/12/12朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書12:35-48、詩編123篇1-2節

「主は来ませり」

 

待降節。クリスマスに、聖なる生贄として来られたキリストが、またやがて天より降って来られて、私たちを完全に罪から救ってくださる。その救い主の到来、あるいはクリスマスの到来に裏付けられた主の再来を待ち望む待降節の、すでに三回目の礼拝を捧げています。あっと言う間にクリスマスがやってきます。皆さん、その用意はもうお済みでしょうか。

主は来ませりという説教題をつけました。あ、この後歌う讃美歌から取ったんだなとお気づきになられた方も多いでしょう。諸人こぞりて、迎えまつれ。久しく待ちにし、主は来ませり。私、高校の古語の授業中居眠りをしていたので、正確な意味はわからんのですが、きっと迎えましょう、ほら、救い主がお出でになるから、お迎えをしましょうという歌だと思って歌っています。お迎えをする。家に帰ったら、お帰りなさいと迎えられる。教会でも、新しい方が来られたら、ようこそと笑顔でお迎えする。迎えられるというのは嬉しいものです。逆に、誰も笑顔で迎えてくれんかったら、こんな教会にはもう来ないということになるかもしれません。お迎えをする態度は重要です。今日の御言葉で言えば、僕として仕える態度が問われるとも言えます。

例えば今夜の夕拝の用意をする。朝どうしても来れない方のために、また朝にも夕にも神様を礼拝したい方々のために、朝夕で違う御言葉と讃美歌を用意して奉仕者は備えます。慌しく夕食を済ますということもあります。で、必然的にと言いますか、うちは金土日カレーが多い。最高です。私はカレーが大好きなので、つい食べ過ぎて、おおの苦しいとネクタイを緩め、ベルトも解いて、下手したらズボンのボタンまで外して完全なおやじになって、ふぅ、夕拝までちょっと休憩とか言ってついウトウトして、礼拝の時間まで外の電気もつけん、礼拝堂も暗いままということになりますと、どうなるか。イエス様から、幸生、お迎えするという態度がないがやないか。ちゃんとベルトを締め、電気をつけて、暖房も入れて、お迎えの備えをしなさいと叱られそうです。

無論、お迎えの備えをするのは牧師だけではありません。皆こぞって迎えるのです。旧約聖書で人の子と呼ばれるメシア、救い主が再び来られて、罪の世を終りにされる。そのイエス様をお迎えする態度、待降の態度を、主は婚宴から帰ってくる主人を待ち望む僕の態度として描かれます。当時のユダヤ人の婚宴は一週間続くこともあったそうで、とにかく延々と宴が続いた。今日帰るのか明日帰るのか、ひょっと夜中に帰ってくるか、本当にいつ帰るのかわからんかったそうです。それをじっと待っている。偉い。渋谷駅に銅像を建ててもかまんほど、まことに忠実な僕です。犬と比べるとはけしからんと、真面目な人からは言われそうですが、主人をじっと待っているこの僕、単に真面目なだけではないとも思います。主人をそこまで待っているというのは、愛がなかったら、待てんと思います。夜中に帰ってきて、誰も起きてなかったら可哀相やという愛情とも優しさとも言えるでしょうか。高校生の頃、友達の家に泊まりにいって、夜中二人でそっと抜け出し、5時前に家に帰ったら、玄関の電気がついている。しもうたと思ったけれども仕方ない。友人が引き戸を開けると彼の母親が目を真っ赤にして玄関に座っちょったことがありました。うんと怒られましたけど、深い愛情を感じました。そうでしょう。待つって、愛の表れじゃないかと思うのです。イエス様が、ここで願っておられる僕と主人との間柄にも、愛情を感じられはせんでしょうか。

だからでしょう。帰ってきた主人は、自分を待ってくれていた僕たちに、まるでいそいそと自分からエプロンをつけるようにして、ほら、これを食べなさい、この杯から飲みなさいと晩餐の給仕をしてくれるのだと、イエス様は言われるのです。ちょっとありえない情景です。

今の時期、連夜忘年会続きで、帰りも遅く、いささか罪悪感を覚えながら帰宅するご主人方も多いのではないかと推測します。そこで帰ったら早速エプロンをつけて、あ、お土産あるき、この海老うまかったよ、このサバ寿司焼こうかなどと、愛する伴侶の不機嫌を宥めるご主人方もいらっしゃるかもしれません。おらん、おらんとも言われそうですが、でも、おるのです。イエス様は、おるでと言われる。

無論、忘年会とか罪悪感とは無縁ですが、僕に給仕する主人はおると言われる。イエス様が、はっきり言っておくと言われて何かをおっしゃるときには、それは真実の中の真実だということです。もとの言葉は、アーメンとわたしは言う、という言葉です。これは嘘じゃない。誇張でも何でもない。わたしはあなたとアーメンの約束を交わそう。わたしはあなたのために食事を与え、あなたに仕える。あなたの主は、あなたに仕える愛の主である、そうだろうと言われるのです。事実イエス様は、十字架に架けられる前の晩、最後の晩餐の席において、腰に手ぬぐいをまとって弟子達の足を洗われて、当時、僕が行っていた奉仕の業を、ご自分の僕たちになさいます。その愛の業が記されたヨハネによる福音書から、数年前に説教しました。イエス様は弟子達の足の指の間も洗われたと思いますかと尋ねました。皆さんならどうされるでしょう。愛がないとできん行為ではないでしょうか。弟子たちの足の指の間も、主はきれいに愛を込めて洗われたと、私は思うのです。そして、これ以上にない愛を込めて、十字架にお架かりになられて自らを生贄とされて、私たちの罪の償いをされたのです。主の晩餐と呼ばれる聖餐式で差し出されるパンを食べるとき、私たちはそのイエス様のお体を口にします。愛のこもったお体を、私たちの体の中に、そして心の中に迎え入れて、愛の関係を確かめるのです。主人の帰りをお迎えしようと待っていた僕たちついて言えることが、その主人についても言える。少なくとも、わたしとわたしの弟子たちの間には言えるろう、言えないかと主は言われる。ここには愛の関係があるだろうと言われるのです。

更に続いて主が言われた「わきまえなさい」ということも、愛のわきまえがあるかという問いです。用心をせよということではない。愛する主人が帰ってくるのに、何で用心なんかするでしょう。でももし、私がこの家の主人だ、私がボスだと思っておったら、どうでしょう。家の中で一番偉いのは、そらその家の主人です。例えばマルタもそうでした。だから自分の思い通りにならない妹にも、イエス様にも腹が立つ。私が主人なのに。あるいはこの家とは、自分の生活をいうのでしょうか。私の人生の主は私だと。けれどその私の人生を裁かれる神様とお会いする日が来るというのなら、それはもちろん来るのだけれど、それなら用心しとかないかんと、そういうことが言われているのか。

このことは案外わかりにくい、わきまえにくいことではないかと思います。ペトロもわかってなかったのです。え、イエス様、私はイエス様の弟子ですし、信じてますし、愛してもいますけど、それでも用心せないかんのですか。それとも安心しておればよいのですかと、そんな問いではなかったかと思います。それでイエス様はもう一つの譬えを話されます。かいつまんで言うと、主人が、あなたは忠実で賢い、つまりわきまえのある僕だよねと信頼をして、僕に他の人々のお世話を任された。愛の世話をして欲しいと命じられた。けれどもし主人に従わず、愛の業に励まず、要するに、自分が主人であるかのように我が物顔で振舞った僕はどうなるか。ひどく裁かれると主は言われます。愛を任されたのに愛さない。愛のわきまえを持ってないことが裁きの対象になるのです

ペトロはイエス様のお気持ちがわかったでしょうか。主は、愛しなさいと言われたのです。弟子たちの足を洗われたときも、主であるわたしがしたように、あなた方も同じようにしなさい、互いに愛し合いなさいと言われました。主は私たちに愛をわきまえて欲しいのです。私は主を信じているし、愛しているし、こんなに仕えゆうとかあったとしても、それが自分の信仰や自分の熱心や、仮に自分の全財産を貧しい人のため使い尽くそうと、誇ろうと我が身を死に引き渡そうとも、愛がなければ空しいと主は言われる。自分を捨てて仕えて欲しいと願われる。そこに十字架の愛、クリスマスの愛が輝くのです。

日本基督教団信仰告白にこうあります。「教会は主キリストの体であって、恵みによって召された者の集まりであります。教会は公同の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝え、バプテスマと聖餐との聖礼典を行い、愛のわざに励みながら、主が再び来られるのを待ち望みます。」愛がなければ待つことができない。主が再び来られるのを待ち望めない。キリストの再来を待ち望む愛と、励みつつ人々に与える愛とは、別々のものではという、この愛の奥義は深いのです。神は愛ですという神の奥義は、そうそうわきまえ得るようなものでもないと思います。しかしならばこそ神様は、どうしても救い主を私たちに与えずにはおられなかった。このキリストに結ばれているから、待てない私が待てるのです。キリストが帰ってきてくださったら、待てない苦しみからも救われるのだと、ただキリストを待ち望めばよい。待てないで、知らずうち愛のわきまえからはみ出して、我が物顔で生きている私の罪を、キリストが背負って下さったから、罪を赦して下さったから、そのキリストを待てばよい。

イエス様が言われるには、僕が待っている時は真昼ではない。夜中です。罪の暗闇が我が物顔でのさばっている暗い世界です。でもそこに、神様はもうキリストの光を灯されて、あなたは、この光のもとに生きればよい、このともし火を灯して待てばよいと、クリスマスの光を灯してくださった。私たちは、そのともし火を灯すのです。

来週はいよいよクリスマス礼拝です。精一杯のお祝いをします。もしその前にキリストが帰って来られたら、もっと盛大なお祝いです。用意をしましょう。神様が下さった光を灯して、主の愛という光を灯して、世界の主をお迎えするのです。