2011/1/2新年礼拝説教@高知東教会 コリントの信徒への手紙二5章16-21節、イザヤ書40章27-31節 「誰でも新しくなれる」

2011/1/2新年礼拝説教@高知東教会

コリントの信徒への手紙二5章16-21節、イザヤ書40章27-31節

「誰でも新しくなれる」

 

昨日、元旦礼拝をいつもとは違った形で捧げました。毎週の土曜日に行っている教会学校の礼拝と合同で捧げたのですが、これもまた楽しい礼拝の祝いでした。元旦礼拝をしない教会もあるかと思います。以前は私も元旦礼拝の意味がわからず、家族が初詣に行くのに、主を信じている私は一緒に詣でられないという方に配慮しているのかと思いましたら違っていました。元旦はクリスマスから丁度8日目に当たります。聖書でイエス様がお生まれになって8日目に、その子に割礼を施し、天使が告げた通り、その名をイエスと命名したとある。そのお祝いの日として古来教会は、この日を主イエス命名日と呼び、祝ってきたということを実は先週学び直しました。恥ずかしくもあり、また同時に嬉しくもありました。私たちは元旦に、救い主のお名前を祝うことが許されている。イエス。主は救い、あるいは、救いの主という意味です。イエス様と呼ぶたびに、主は私の救い主です、主が私たちを救ってくださいますと、信仰の告白をすることのできるお名前を、神様が私たちにプレゼントしてくださった。まさに救いの祝日と言える日でもあります。ま、それが昨日だったというのが、ちょっと残念ではありますが、イエス様は今日も私たちの救い主です。主は生きておられて、私たちの罪を赦し、古い日々をもう過ぎ去らせて下さって、すべてを新しくして下さる。今日も主のもとで新たな喜びを持って、信じて生きていけるのです。

新しくなるということは、それまでが古くなるということです。例えば年齢。昔は正月に歳をとりましたので、私で言えば40歳になったことになります。えらい過ぎ去ったなあと思いますが、今は少子化ですし、おそらく半数以上の方が、若い若い、まだまだこれからぞねと言われると思います。ただし、正月やき、好きなばあ食べたち、という年齢は、もう過ぎ去ってしもうたなあと正直実感もさせられます。少し前、私の好きな映画のシリーズで、ロッキー・ザ・ファイナルという映画を見ました。50代後半を迎えたボクシング元世界ヘビー級王者が、現役の世界王者と試合するという相変わらず破天荒な話ですが、相変わらずグッと来る場面もありました。愛する妻を失い、深い喪失感を引きずりながら言わば過去に生きている主人公が、これじゃいかんと自分と向き合い、ま、ここが映画ですが、既に失効したプロボクサーの資格を再度申請する場面があります。コミッショナーのお偉方が、健康面、体力面は合格だけど、何せ、その年齢だ、資格は与えられないとの返事に、ロッキーが答えて言う。年をとる悲しみはあなたがたも知っているだろう。色々と失って、しかも取り返すことができない痛みをこらえながら生きるほかない。けれど全てを失ったわけでは決してない。まだ残っているものまで、どうか奪い取らないで欲しい。おそらく私の言葉が多く混じっていると思うのですが、ここはグッと来ました。まだ残っているものとは何か、人によって色々と思うことは違うかもしれませんが、総じて言うならば、生きるということ。これだと思うのです。生きるということを古くさせてしまわない。あなたにとって、生きるということは終わってない。もう終わって、後は余りだ、余生だなどというのは、やはり命の本質を捉え損なってしまっている言葉だとも思うのです。

先日ある方が昨年6月に召された金田さんが、けれど晩年まで教会員の名前一人一人を唱えながら祈りの奉仕を捧げておられたということを聞いて、そうだ私もそうやってお仕えできると励まされたという証をされて、その時も私はグッと来ました。アーメンとイエス様に感謝しました。キリストに結ばれた者は、そうやって新しく生きられる。実際に生きておられるのだということを、神様ご自身から、ほら幸生、見よ、ここに命の新しさが生じている、見よと言われていたように思うのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。もとの原文に近いのは古い口語訳でして、この場合は、古いほうが良かったなあと複雑な思いがあるのですけど、こう訳しています。誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなった。原文には、見よ、という言葉があるから、見ないかん。イエス様が、既に行ってくださった救いの御業が、今も、見える形で行われているのですから、さあ、見なさい、見てごらんと招かれている。

ですから口語訳のほうが随分良いと思うのですが、これは更に、こう続きます。しかし、すべてこれらのことは神から出ている。生きているということ、しかも、新しく生きているということ。これはすべて神様から与えられて出ているのだ、命ってそうでしょうと言う。自分の中に残っているからって、自分のモノだとは限りません。人生の中で自分の力で勝ち取ったモノだって少なからずあるだろうとは思うのです。でも命に限ってはそうではない。誰も異存はないと思います。また仮に全てを失ってしまっても、命だけはある。じゃあどう生きるか。自分のモノと呼べるモノは、過去の人生も含めて、全部失ってしまったとしても、それでも人は本当に、神様のもとで新しくやり直せるものなのか。神様の答えはイエスなのです。また親父駄洒落みたいになりましたが、私は心からそうだ、イエスと思いますし、またこのテーマに取り組んだ古い文学も多くあるのです。その一つに「ああ無情」があります。中学生の読書感想文でずっと前に読んだ本ですが、原題は、憐れむべき人々という意味です。作者ユーゴーの信仰は存じませんが、この題は、神様の憐れみのもとに、それでも置かれている人々とも読み取れるのではないかと思います。家族のため、極貧の中でパンを盗み監獄に入れられた青年が、脱獄未遂を繰り返して、ついに監獄を出たときには、もう48歳になっていた。言わば人生の最盛期を奪われて、もう誰も信じることができなくなった主人公ジャン・バルジャン。教会の神父に泊めてもらって、良くしてもらうのですけれど、大切な銀の食器を盗んで逃げて捕まる。ところが神父は、いや、これは盗まれたものではなく、この人に差し上げたものだ。しかも、ほら、あなたはこれを忘れていきましたよと、銀の蝋燭立てを差し出して、これもあなたに差し上げたものですと言う。罪の責任を彼に負わせず、かえってその上に恵みを加える。じゃあこれがきっかけでジャン・バルジャンは回心をしたかというと、そうではなくて、その帰り、すっと自然に少年からお金を奪い取って、そこで愕然として我に帰るのです。キリストの恵みに照らされた自分の罪の姿と、そこで初めて向き会って、新しくなりたい、やり直したいと強く願う。そして「正しい人」として、ジャン・バルジャンが人生をやり直そうと立ち直っていくという粗筋ですが、そこで言われる「正しい人」とは、どういう正しさを言うのか。これも読み手によって、千差万別の読み方があるかもしれません。ジャン・バルジャンを執拗に追い詰める刑事も自分の正しさを信じて追うのです。でもその自分の正しさが人を生かすかと言えば、生かさないということを、私たちも日常からよく知っていると思います。それが愛の正しさ、憐れみの正しさでなかったら、人を新しく生かすことができず、ただ古い自分へと、人を追い詰めるしかない。そのことを、知らない人がいるでしょうか。自分自身をすら生かし得ず、自らをも古さに縛り付け、鍵までつけて、どうせ新しくはなれないと、あきらめさせてしまう古い正しさ。

その古い束縛から人間を解くために、神様がキリストによって与えてくださった救いのことを、だから御言葉は、和解と呼ぶのです。束縛から解かれ、解放され、解き放たれて、あなたは新しく生きて良いのだとキリストが、そのために私たちのもとに来てくださった。古さに縛られた人間の只中に、神様が新しい人としてお生まれ下さり、十字架の上に私たちの身代りとなって縛られて、古いあなたは、わたしと共にここで死んだことにして良い。そして新しい人として、あなたは新しいいのちを生き直して良い。神の子としてやり直してよい。復活のいのちに生きればよいと、いのちの保証をしてくださった。だから人間は救われるのです。この新しさを下さった神様のもとで、何度でもやり直しがきく、キリストの憐れみの正しさによって、新しく生きていくことができるのです。

御子のご降誕を祝った8日目に丁度元旦が来て、この新しい年もまたイエス様のお名前によって、新しく始めることができるということにも神様の深い憐れみを思わされます。この年も、まったく新しい年として皆で一緒に歩んでいきたいと願うのです。人が何と言おうと、古い自分の声が聞こえようと、神様ご自身がこう言って下さる。誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなった。この新しさを見させて頂きながら、キリストにある新しいいのちを、共に歩んでいくのです。