10/3/21朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書5:33-39、イザヤ書58:6-7 「新しい皮袋とは」

10/3/21朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書5:33-39、イザヤ書58:6-7

「新しい皮袋とは」

 

私たちの教会に以前、特別伝道礼拝で招きました加藤常昭先生主催の説教塾というグループがあります。そこで毎年三日間皆で同じ御言葉から説教を準備して語り、互いに批評し合うというセミナーがあります。もう何年も前になりますが、ある先生が語られた説教を加藤先生が評されて、この説教は問題だ。特に、説教の最後の締め括りに、私たちは悔い改めなければならないと言って、聴いている人々を突き放すような、こんな悔い改めというのはないと厳しく言われました。私自身、そういう突き放し方をしてないかと、襟を正しました。

今朝の御言葉を貫くテーマもまた、この悔い改めを巡ってです。読んでいただいた所には、言葉としては出て来ません。が、すぐ前の32節でイエス様がこう言われます。先週のように直訳で訳し直しますと「わたしは、正しい人をではなく罪人を、悔い改めに導くために来たのです。」ですから「わたしに従いなさい」「わたしについてきなさい」とイエス様が招かれるのは、そうしたら、あなたは自分の罪を真実の意味で悔い改めて生きることができるようになる。神様が人となられて来られたのは私たちが改めて生き直せるようになるためだと言われるのです。

では、その悔い改めとはどういうものか。それが具体的に描かれているのが今朝の御言葉です。ものすごく具体的だと思います。イエス様に言った人々が、どの人々かはわかりません。ファリサイ派の弟子たちもと言っているので、ファイサイ派ではないかもしれません。そしたら、イエス様と一緒に宴会に招かれておった人々でしょうか。であれば、お酒が入って上機嫌か、あるいは度が過ぎて、ちょっと失礼なことを尋ねたのかも知れません。「洗礼者ヨハネの弟子たちはしょっちゅう断食しておりますし、ファリサイ派の弟子らあもそうやけど、あんたとこの弟子らあは、飲んだり食べたりしゆうねえ」と、酒の席ですから飲んでいるのは当たり前ですが、そもそも当時、宗教的に熱心な人々は酒の席なんかには出て来んと、それがあなた様のところは変わってますねと、率直に思ったことを言ったのか。あるいは、いわゆる宗教評論家のように、比べて比較して論じてしまう偉い評論家さんになってしまって、上から目線で言うたのでしょうか。

けれどイエス様の目線は、これこそ人となられた神様の、キリストの目線以外何物でもありませんが、とっと上の神様の目線から、しかし、それが神様の目線であればこそ、低い目線で答えられます。悔い改めた人は、どんな気持ちになるのか。どういう生き方になるのか。赦された人の立場から、真実の悔い改めについて答えられます。言い換えれば、神様に出会って、神様を信じるって、こういうことじゃないですかと、神様に出会って悔い改めた人の目線から、その神様のお姿を逆に描き出されているのです。悔い改めを、共に祝われる神様のお姿をです。

場面は結婚式の情景です。花婿は旧約聖書で、神の民を救いに来られる天地創造の神様の比喩、象徴としてしょっちゅう登場しますので、聴いておった人々もピンときたのではないかと思います。一方、婚礼の客と訳されているのは直訳すると、結婚会場の息子たち。客ではなくて、会場を作ったり、お酒を運んだり、色々お世話をする花婿の友人たちのことを言ったようです。喜びと祝いに包まれたワイワイとした場面で、27節で救われたレビの宴会の場面にとても似ています。これまた聴いていた人々にはピンと来たのではないかと思います。おお、そりゃあそうじゃと、そんな嬉しい祝いの場に、断食の出る幕はない。お祝いの席で断食をせえらあて、そりゃあ道理がわかってないというもんよと。すぐにわかったではありましょうけど、イエス様、ものすごいことも言うておるのです。わたしは救い主であり、断食によって表される罪の悲しみの出る幕をなくしに来た、あなたがたの花婿であるのだと宣言されてもおるのです。十字架を担がれ、その罪は赦されたと言われるのです。

断食は決して否定されているわけではありません。教会はずっと断食をしてきましたし、私たちもやったらよいと思います。ただし、何故、断食をするかなのです。洗礼者ヨハネの弟子らは断食と祈りをセットでしたと言われます。これが正しい断食です。祈りは神様との会話です。会話は一人では成り立たない。当然のことですが、会話をしているようで会話になってない場面というのは、たまに見かけたりはされんでしょうか。一人が一方的に話しておって相手の言うことを聴いてない。祈りも然り、断食も然りです。自己満足の断食だったら、しないほうがまだ良いのです。断食は神様に対して、ごめんなさい、私の罪を赦して下さい、怒りをおさめて、私を、あなたとの暖かな交わりの中に回復させて下さいと罪の悔い改めと悲しみを表現する、祈りの別形態です。口だけの祈りにならないようにということもあるでしょうか。人間関係でもそうでしょう。ごめんなさい、ごめんなさいって、あなた口ばっかりじゃないかと。うちの夫婦関係を言うているのではないですが、罪を犯してごめんなさいと思ったら、私はこれだけ悲しんでいる、ではなくて、どうしたら相手との暖かな交わりに再び受け入れてもらえるか、その思いでとにかく一杯なのです。関係の破れを、どうしたら繕えるか。何かしたからといって、それで簡単に償えるとも思ってないし、決して償えない罪もあります。そもそも人の心を傷つけて、その償いって、誰がどのように、これだけやったら償えるって決められるでしょう。そんな傲慢さがその人を傷つけたのではなかったでしょうか。けれどだからと言って何もしないわけではありませんし、何もしないではいられないのが、愛の破れであり、悲しみです。破れているのが悲しいのです。罪を犯したことが悲しいということもあるでしょうけど、それは傷ついた自己愛の悲しみであって、それよりも、傷つけた相手に対する悲しみが勝らなかったら、いくらごめんなさいと言っても、嘘でしょう。私の罪ゆえに傷ついて、どうしてあなたはこんな酷いことをしてくれたのかと怒っておって、罪を犯した私としては、それは当然の裁きだけれど、それがどうしようもなく苦しくて悲しくて、どうしたらよいかわからないけど、それでも赦して欲しくって、信じてもらえないかも知れないけれど、私はあなたを大切に思っていて、あなたとの関係が破れていることに耐えられないと、すがるような思いで断食をして、少なくとも私が真剣だということはわかって下さい、食べ物がなかったら私は満たされることがないし、ずっと続けたら死んでしまいます。そしてそれは神様、あなたとの関係もまったく同じだと今知ったのです。あなたとの関係が破れていたら、私は決して満たされず、永遠に死んでしまいます。憐れみ給え我が主、我が神と体を張って祈るのが断食であればこそ、キリストは、なら、それはもういらない。私が来たのは、あなたとの関係を永遠に回復するためだと、破れの終わりを告げに来られたのです。

私たちが心から神様と向き合う、神様のための断食は、今もイエス様当然喜ばれます。断食がどうのというよりも、私たちだって同じでしょう、ああ、この人は私のことを愛しているのだと思ったら、それが一番に相手に求めるものではないですか。断食が愛の悲しみでなかったら、だったら一体何なのでしょうか。私はこれだけやったのだから、その宗教的努力を認めて下さいという、ただでは人を信じない同士が、言わば信頼を勝ち取る努力をするように、神の愛もまた勝ち取る努力をせんといかんという態度なら、神様はますます怒られんでしょうか。だって、そこに神様への信頼はないでしょう。人間の世界ではいざ知らず、神の国での信頼関係はこうなのです。努力は信頼を勝ち取りません。信頼関係があればこそ、努力をしようと思えるのです。喜んで欲しいと努力をします。勝ち取る努力が目指しているのは、自分の喜びだけなのです。神様は私との信頼関係を何よりも大切に思っておられます。信頼関係があればこそ、愛の関係がそこにはあるし罪を犯したらいかんと思うし、もし犯したら、愛ゆえに当然怒ります。けれど人間がいつもやるような自分の正しさが踏みにじられた怒りではなく、関係が破れた怒りです。相手を失った悲しみです。人間が悲しみを表すこともなく、かえって神を自分の宗教的安心安全を固める努力対象としてしまい、私たちの家族や隣人のように、命をかけて愛すべき方として心してなくても、神様は私たちを求められます。近寄ったら傷つけられるとわかっておられて、それでも近寄られる愚かな愛です。そして、もう愛される努力はせんでいい、あなたにはわたしを愛する努力をして欲しいと言われるのです。それが神の国の愛と信仰です。主が求められる悔い改めは、思い違いを改めることです。もう愛されているのです。これだけやったら償えるとか、私はどうせだめなんだとか、してもせんでも救われるのなら好きにするとか、人は神様の愛を信じません。でもその信じない心を改めて、神様、私の罪を負って死なれたその愛を、私はまた見失っていました。信じます。愛を信じずにごめんなさいと、素直に謝ればよいのです。

そして、その愛がわかったら、お祝いしたくなるでしょう。お酒もいいんじゃないですか。今日、神様の愛がわかりましたと乾杯するのも、素敵なお祝いだと思います。二次会にカラオケなんか行かなくっても、大声で讃美歌を歌いにいくぞって、礼拝を楽しみにしたら良いのです。本当の喜びを歌ったらよい。イエス様が、新しい服とか革袋とかお酒の譬えでお話なさったのは、そういう新しい喜びの生き方です。一方に、自分の喜びのために生きる古い生き方がある。かたや、キリストが来て下さって、共に歩んで下さって、私はキリストにいつも背負われていて嬉しい、悲しい時でもキリストの慰めがあって、だから安心して悲しめるという、そんな新しい喜びの生き方がある。その二つ、両立することはできんでしょうと、イエス様はおっしゃるのです。赦され、愛され、背負われているのに、赦しも愛も勝ち取ると、背負われるのはプライドが許さんと、そういう生き方を続けておったら、やがてビリッと破綻しますよと、優しく忠告をなさるのです。ならば安心して決心し、赦しを信じたら良いのです。愛を信じたら良いのです。神は愛です。人を愛する新しい勇気もこの愛の内にあるのです。破れを繕って下さるキリストが、私たちと共に生きていて下さるから、人生は新しくなるのです。