10/3/28朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書6:1-11、創世記2:3 「偽善を憎まれる主」

10/3/28朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書6:1-11、創世記2:3

「偽善を憎まれる主」

 

この週、私たちはイエス様が死なれたことを覚えて時を過ごします。そして次の礼拝は、イエス様の復活をお祝いする、復活祭の礼拝です。そのお祝いを、心から、つまり、私のお祝いとして祝うためにも、この週の過ごし方というのは大切になってくるでしょう。とは言っても、あっと言う間に土曜の夜になって、イエス様のことをほとんど思わなかったと罪悪感を覚えることも、あるいはあるかもしれません。でもそのようなときにこそ覚えていて欲しいのは、そのような私たちだからこそ、神様が人として死なれる道を選び通して下さったという恵みです。罪を赦して立ち上がらせるために、神様が死んで下さったという恵みです。萎えた信仰も冷めた熱意も、恵みによって立ち上がらせてもらえます。キリストは、恵みをお与えに来て下さった。十字架で恵みを降り注いで死んで下さった。その決定的な神様の動機を忘れてしまったら、何というか不自然に暗い受難週になりはしないかとも思います。まるで受難週の間に笑いでもしたら、受難週に不謹慎な、と怒られでもするかのような、娯楽番組など見ようものなら、イエス様から、わたしの死を何だと思っているのかと叱られでもしそうな、万一そういうイメージを持っておられたら、そこでこそ、今朝の御言葉で語られるイエス様のお言葉に耳を澄まして聴いてほしいと願います。受難週に許されているのは何だと思うと、私たちに尋ねられるイエス様のお言葉に、共に向き合いたいと思います。イエス様、私はどういう心構えでこの受難週を過ごしたらよいでしょうと、それぞれに主に尋ねたら良いと思います。その結果、いつもと同じ過ごし方をするということもあるかもしれません。無論、いつもどんな過ごし方をしているかも、そこで問われることになるでしょう。罪の自覚に導かれたなら、その罪を悔い改める恵みのときともなるでしょう。年に一度の受難週が有意義な恵みの時となると思います。キリストはとにかく私たちのことを、恵みによって何とかしようと、父なる神様と聖霊なる神様と共に、話し合われて来られたのです。今もまた、神の右の座で執り成して下さっているのですから、とにもかくにもキリストの苦しみの恵みを、覚えて過ごせば良いのです。

そこで一つ助けになるだろうと思いますのは、やはり、私たち自身の苦しみを思うことです。すぐに思い当たる苦しみや痛みがあるだろうと思います。病気で高熱が出たり、泣きたいほど体が痛くなったり。その同じ苦しみを、イエス様は体と心に十字架で受け続けて下さいました。どこかで通ずる、共通の痛みを、私たちは既に感じていると思います。人間関係の苦しみもそうでしょう。敵対される苦しみも、愛する人から裏切られる苦しみも、もう死にたいと思う苦しみの長い夜も。イエス様もまた過ごされた長い長い夜を、私たちもまた共感できるのではないかと思います。愛を覚えるとき、共感するということは外せません。同情するとさえ、言って良いのだと思います。イエス様に同情すると言っても、別に上から目線ではありません。同情されて惨めになるような傷ついた自己愛なんかも持っていません。愛そのもののお方です。人として来て下さった神様です。むしろ、寄り添われることを望まれます。愛して欲しいと律法で私たちに公に大々的に、これこそが律法の全てであると、愛して欲しいと望まれる神様です。その神様の形に造られた私たちですから、私たちも、愛されたいのは自然なことです。それが愛ということではないですか。だから互いに愛し合いなさいと、それがわたしの新しい律法だと、イエス様は弟子たちに最後の晩餐の場面で言われたのです。人間らしい生き方をしなさいと、そのようにして、あなたが嘘の生き方をせんようにと、イエス様は私たちに向き合って下さいます。

簡単に嘘に陥ってしまうのです。まるで獣じみたプライドや自己防衛で、自己愛だけで過ごしてみたり。その結果、当然そうなるのですが、自己愛が傷ついて怒ったり自己憐憫に陥ったり。思春期だけの問題ではありません。生涯思春期のようなものかも知れません。愛の欠陥で悩みます。寄り添って欲しいと思う一方、寄り添ってなどもらいたくないと跳ね返ってしまう。手負いの獣のこの傷は、私たちがその形に造られた神様の愛から離れて生きてしまう罪の破れと無関係ではないでしょう。同情しないし、されたくもないこの破れを、神様は再び回復するために私たちにキリストを下さいました。神様が人となられた所以です。愛の救いのご計画があるのです。それは私たちの内で破れて壊れた愛の形、神の形を、もう一度、まことの人、イエス・キリストの内に回復され、その愛を十字架の上で身代りに破いて裁かれることで、私たちの罪を破棄して赦してしまうのです。そしてその赦しの愛、キリストの恵みを信じる人の破れを、神様はキリストの愛によって繕い直し、神の形を再び私たちの内に回復していかれるという救いです。手が麻痺をして動かなくなってしまっていたこの人が、キリストの招きに従って立ち上がり、キリストが言われたとおりに信じて従ったとき、動かなかった手が回復されていくように、愛が麻痺して動かなくって、同情も共感も麻痺しておっても、キリストの愛に聴くときに、信じて、従っていくときに、頑なな心も溶かされて、自己愛の嘘からも解放されて、愛の形に回復されます。そのためのキリストの苦しみです。愛なき世界に直面して、怒って放り出して裁くのではなく、赦して近づいて、一緒に愛の回復に向かっていこうと寄り添ってくださるキリストなのです。

そのイエス様の苦しみに共感し同情するのは、決して悪い意味で人間的というのではなく、そもそも私たちが、その名を愛と呼ばれる神様の愛の形に造られた者として、とても人間らしい愛の現れであると思います。愛の回復がそこで起こっているとすら言ってよいかもしれません。誰が苦しんでいようとも、同情するのが人間です。神様は、同情なさる神様です。放っておくことができなくて苦しみを負って下さるのです。

御言葉の内に登場する、まるで同情を知らないファリサイ派の人々をも、キリストは深い憐れみの内に見つめられます。その心の中身を見抜かれるほど、この人たちに入り込んでいかれます。自分に敵対する者の心に、入り込んでいく人がおるでしょうか。避けたい見たくない、存在してなかったらどんなに楽かと、彼らがイエス様に対して思ったように死んでくれたらどんなに楽かと、心でその人を殺すのが、敵という存在ではないでしょうか。けれどもそんな安息を、神様は拒否されて、敵を愛して、その愛によって、その人が生まれ変わってくれるまで愛し続けて待ち続けて、ついに共なる安息を得るそのときまで、わたしは苦しんだってかまわないと、そういう、愛の安息を求められます。キリストが望まれた安息はそうなのです。神様がお造りになられた安息は、そもそも愛の安息です。体の自由を失って苦しむ人を、隣で思いやることもできず寄り添えず、それで自分が傷つくこともないほどに自分の正しさで固く自己防衛をしてしまっている、石のように固くなってしまっている人間のために、神様すら殺したいと願う人間のために、キリストは血を流されて、十字架で祈って下さったのです。

自分の正しさは人を救いません。人をもそして自分をも、滅びに追いやっていくだけです。愛をなくした正しさは、名ばかりの嘘に過ぎません。自分の正しさは全部嘘です。聖書がこう言っているじゃないかというのさえ、自分を正当化するための口実です。ヨナという預言者が昔いました。魚に飲み込まれて陸に吐き出されたとても有名な預言者です。神様に従いたくなくて逃げました。でも主の愛に捕えられて従い、敵国アッシリアの都ニネベで、神の言葉を伝えたら、ニネベの人々は悔い改めて、神様に赦して頂きました。そのときヨナが文句を言います。あなたは恵みと憐れみの神であり、忍耐強く慈しみに富み、災いを下そうとしても思い直される方です。ですから、私は嫌だったのです。私の敵が赦されるのを私は見たくなかったから、だから愛さなかったのですと、神様に従わなかったことの口実に、神様の愛をあげるのです。神は愛だと告白するのは、それはまったく正しいことです。その正しさを、罪の言い訳にして愛さないズルイ正しさがあるのです。それでもそこに自分の安息を見出したい。自分の正しさに安息したい。でも嘘は、その嘘でどれほど安息を得ようとも、嘘は滅びへと向かうのです。

キリストはその恐ろしい嘘を見つめられ、人を愛さなくて良いという律法を、わたしは創った覚えはないと、あなたに問いたいと近寄られます。敢えて向かって来られます。神様の愛はそうなのです。日本人感覚で言うなら、そこは無視して放っちょきやというところで、ものわかりがうんと悪いのです。日本人だけではないのでしょう。それゆえに怒り狂われて、この目障りな愛を何とかしようと計画されます。遠まわしに言うてはおりますが、要するに、殺そうという計画です。永遠に会いたくないという怒りです。でも無理です。神は愛です。そしてそれ故に、神様の怒りもあるのです。人間が自分の正しさを責める神様に怒り狂って無分別になってしまうとき、本当に何もわからんなってしまうとき、神様は、あなたは自分を何者だと思っているのかと怒られます。それは恐ろしい裁きです。死んで償えるようなものではない永遠の裁きは確かにあります。神様は人間の傲慢を怒られます。分別があられる故の怒りです。でもそれが、愛ゆえの怒りであればこそ、怒り狂われるわけではないのです。愛が狂って自己愛で怒り狂っている悲惨な私たち人間を、神様は、怒られもだえられ、心を引き裂かれながら、わたしはあなたをどうしたらよいのかと悩まれるのです。気に食わぬ救いの神を何とかしようと画策する者たちに、文字どおりご自分の命をおかけになられて、わたしがあなたを何とかする、わたしはあなたの神であると、キリストは十字架で死なれたのです。

その日、注がれたものが二つあります。一つは神様の怒りです。私たちに注がれるべき裁きの怒りがキリストの上に注がれました。そして、もう一つ、その十字架のキリストから恵みが私たちに向かって注がれました。怒り狂っている者をさえ赦してしまわれる恵みです。キリストの血に清められ、神の子としてやり直してよいと、恵みが注がれ続けるのです。この週、覚えるのはその恵みです。主の憐れみを覚えるのです。