10/3/14朝礼拝説教@高知東教会
ルカによる福音書5:27-32、イザヤ書51:15-16
「こんな私さえ主は」
罪人でない人って、いるのでしょうか。イエス様から招かれていない人って、いるのでしょうか。およそ18年前に、私が教会に行き始めたころ、流石に私は自分が罪人ではない、神様と人との前に罪を犯したことなど一度もないとは思ってはいませんでしたが、それでも、その罪を、私は自分で何とか処理できると考えていました。病気に譬えたら、軽い風邪ぐらいにしか思っていませんでした。市販の薬で十分。医者なんかいらんと。前に言いましたように、私は医者を尊敬していますし、嫌いなわけではありません。ただ注射が怖かったと言うか、臆病なのです。けれども一度40度を超える熱が出て、そのときから、ある意味、注射が好きになりました。夜更けにガタガタ悪寒で震えて、毛布が足らんのでセーターを着て、その上から防寒ジャケットを着て、それでも寒くて、いつになったら朝が来るのか、早うお医者に行きたいと、泣きたい思いで苦しんでいました。夜が明けてからがまた長いのです。9時になったところでようやく友人に、お医者に連れて行ってもらいました。たしか注射を二本打ったように記憶しています。もうろうとはしていましたがホッとしたのを覚えています。医者に注射をしてもろうたら楽になる。そう思えるようになりました。その後で更に覚えたのは、点滴をしたらもっと楽になる、というのがありますが、あんまりやってはくれんようです。病気にならんよう努力しなさいということかもしれません。
一人の病人がいました。名前をレビと言いました。医者を必要としていました。でも、どれだけ自覚があったでしょう。ある程度はあったのではないかと思います。レビという名はあだ名でしょうか。洗礼者ヨハネ、その父ザカリアの一族をレビ族と言います。モーセの一族でもあります。神殿礼拝を司る、祭司の務めを担う一族です。神様から選ばれて祭司の務めをするように、レビ族は聖なる任務を頂きました。この人もあるいはそのレビ族の一員であったのかもしれません。だとすると、ものすごく皮肉な仕事についたのです。当時イスラエルの国で税金を集める徴税人と言ったら、ローマ帝国の手先として働く、国を売り飛ばした恥ずべき人々だと、皆から嫌われておったからです。お金はうんと儲けたようです。私腹も肥やしておったようです。それでますます嫌われました。そんな仕事をしていながらも、お前は祭司の一族か、レビか、というので、仲間から笑われるようにして、レビと呼ばれておったのだとしたら、自分のあだ名を笑いながらも、心には後ろめたい気持ちが、やはりあったろうと思います。一族からは恥さらしと、縁を切られておったでしょうか。ますますお金に走ったでしょうか。開き直る気持ちもあって、俺はレビだと、何が悪いと。そういう気持ちって、キリスト者の子供たちにもあったりするのかもしれません。数ある色々な力の中でも反抗する力って、かなり強いのだと思います。それでも罪悪感というものは簡単に拭えるものではないでしょう。安心するために酒を飲んだり買い物で気分を紛らわしたり、やったらいかんことを敢えてやったり。泥沼にはまっていくパターンというのは、今も昔も変わらんでしょう。たとえ表立って後ろ指を指す人がおらんでも、心の中に感じるのです。後ろ指が刺さっていて嫌なのです。同じように後ろめたい気持ちの人々や、そうでなくても何かの闇を共有する仲間らと、共に騒いだりしたのでしょうか。当時のユダヤ教エリートであったファリサイ派の人々が、「罪人たち」と呼んでいた仲間たちです。ファリサイ派同士の仲間内では、あいつらとおったら感染するぞ、染るき仲間になられんぞ、他人でおるのが一番ぞと、そう言われておった人々です。
けれど神様は、その人々を見つめられ、あなたのための医者がいるとキリストをお与え下さるのです。レビに仲間がおったのも神様のお導きだと思います。皆キリストに、救い主に導かれていくのです。
イエス様のお言葉は、びっくりするほど簡潔です。真実な言葉であればあるほど、余計な言葉はいらんのでしょう。「わたしに従いなさい」。あるいは「わたしについて来なさい」。そこから全てが始まります。ここにスタートがあるのです。キリストが常にスタートです。私のスタートは18年前、二十歳のときです。けれど今でもスタート地点に私は立たされているのです。皆同じ地点にいます。キリストについて行くのです。何年経ってもキリストが、わたしについてきなさいと、前に向かって導かれます。そこが新しいスタートなのです。キリストを信じて、洗礼を受けたら毎日が新しいスタートです。毎朝キリストが招いて下さる。わたしについてきなさいと招いて下さる。受け入れて下さる。当然のことではありません。人によっては、もう嫌と、捨てられてしまう事だってあるのです。終わってしまうことがあるのです。けれどキリストは毎朝毎朝、おはよう、わたしについて来なさいと、夜寝る前には、おやすみ、今日も一日、わたしについてきたねと、もしもその一日、イエス様に従ってなかった、罪を犯してつまずいてしまったと悔やんでも、後ろめたい気持ちがあったとしても、起きたら、わたしについて来なさい、わたしはあなたがついて来んでも、それでもあなたと共にいた、今夜寝る時も共にいる。わたしについてきなさいと、日々新しく招かれます。だから救い主イエス様と呼んで、主の名によって寝る前も祈って、罪の赦しを心に受けて、安心して寝ることができるのです。
レビが「何もかも捨てて立ち上がり、イエス様に従った」のは、そういうことだと思います。嫌な自分を捨てられるのです。全部後ろに投げ捨てて、ついて行ったらよいのです。キリストは、わたしはあなたの過去を振り返らない、あなたも前を向いて歩めばよいと、わたしが責任を取るからと、何もかも捨てて立ち上がれ、古い自分は墓に葬ってよいと復活の光に招いてくれます。キリストについていったらそうなのです。復活にむかって行くのです。スタートはいつでもキリストです。共にいてくださるキリストです。そして復活がゴールなのです。既にゴールに照らされているスタートでもあります。立ち上がったという言葉はそうなのです。主の復活を表すときに用いられている言葉です。キリストについていって立ち上がった人は、復活の立ち上がりをしているのです。キリストの立ち上がりに背負われるようにして、あるいは突入するようにして、私たちもまた立ち上がるのです。
イエス様が言われた「わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」という言葉。この訳だと何か招いてから、お説教でもして悔い改めさせるような雰囲気があります。けれど直訳すると、罪人を悔い改めへと招くために来た。悔い改めとは生き方・考え方がグルッと180度方向転換することです。イエス様から招かれてイエス様についていったら、そしたら今までの古い生き方から新しい生き方に変わっていく。今までは神様抜きか、あるいは神様は私のお客さんで、私が主であった。その生き方・考え方をグルッと悔い改めて、神様ごめんなさい、あなたに背を向けていました。けれどあなたはキリストを下さって、あなたに連れ戻して下さいました。主についていきます。私の人生の主とします、いえ、最初っから本当はそうだったのです。どうか私を、あなたの望まれるまことの人生に導いて下さい。私をあなたの子供として変えてくださいと、生き方の向き、あるいは、姿勢を変えてしまう。自分の正しさに従って、自分の罪も自分で処理できるかのように考え生きる生き方を後ろに投げ捨てて、グルッと神様に向き直って生きていく。その生き方を可能にするために、イエス様は、わたしはそのために来た、と言われるのです。わたしについて来なさいと招いて下さったその方向に、キリストの背中についていったら、それがグルッと神様に向き直って歩み出している道なのです。人を愛するのも同じですけど、案外、この人を愛していると思っていても、この人を愛している自分を愛しているだけだと気づいて愕然とすることもあるのです。神様に祈って宗教的だと思っていても、神様の言うことは聞かなくて、私はこんなに正しい生き方をしている、私は私はと神様のお気持ちは置き去りの、ファリサイ派的正しさに、すぐに陥ってしまう罪を、教会は常に悔い改めてきたのです。人の過ちをにらんでいるとき、自分の正しさを見つめるとき、キリストも見つめておられます。あなたのその目は、罪に病んではいないかと。
しかし、そのような罪人であれば尚のこと、キリストが私たちを避けられるはずはないのです。まるで私たちの正しい人生に割り込んでこられるようにしてでも、主は私たちに向き合われます。ファリサイ派は、イエス様には直接聞かずに、弟子たちをつかまえて文句を言って、自分を正当化しようとしました。そこにイエス様が割り込んでいかれ、医者を必要とするのは病人でしょう、病気の苦しさはわかるでしょう、あなたは病人ではないのですかと、愛の悔い改めへと招かれるのです。
キリストについて行ったらわかります。この愛が私の人生だったかと新しく開けてくるのです。罪の病は長期的ゆえ、あきらめたくなる時もあるでしょう。継続的に飲むべき薬を途中で自分で飲まんことにして、医者に従わず悪化したのに、あの医者は、試してみたけどいかんかったと文句を言うことすらあるかもしれません。そうであるなら尚のこと、あなたには医者が必要だと、キリストは忍耐強く招かれます。わたしについてきなさいと、わたしを信じて飲みなさい、この血はあなたの罪を赦し、この体はあなたを神の子とすると、キリストはご自分のすべてを差し出され、従いなさいと言われるのです。
レビはそのイエス・キリストを信じたのです。神様の救いを信じたのです。そしたらレビは、この日一番、幸せな人になったのです。昔の私にお別れパーティーを開きました。盛大な宴会となりました。仲間たちも大勢招いて食べたり、飲んだり。でもその中心に、キリストのお席を構えました。主役は自分ではなかったのです。それが心から嬉しいのです。皆さん、この方が、この方こそ、こんな私を、新しい人として出発に招いて下さいました。私はこの方についていきますと、新しい門出をお祝いしました。この礼拝も、その新しい門出の祝いです。キリストがわたしについてきなさいと、一人一人を招かれるのです。