10/3/7朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書5:17-26、イザヤ書44:21-22 「この方にかける」

10/3/7朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書5:17-26、イザヤ書44:21-22

「この方にかける」

 

中風という言い方は若い方、わかりにくいかもしれません。脳卒中と言ったらわかりよいでしょうか。脳の血管から出血し、体が麻痺して動かんなって不自由になる、現代でも決して少なくない病です。けれど、体が不自由になっても、人は自由を持っています。この人もまた持っていました。神様を信じる自由をです。

イエス様は「この人たちの信仰を」見られたと言われますので、この人を運んできた仲間たちも、ここで主を信じる信仰を持っていました。しかも見ることのできた信仰です。イエス様は神様として心の中を見ることができたのかもしれませんが、それと共に、このとき彼らが見せた信仰の行為を、イエス様は、感動して見ておられたのではないかと思います。体の不自由な人をイエス様のところに連れてきただけでも、中々ようせんことだと思います。愛は犠牲を払うからです。でも苦労をして連れて来たのに、群集に阻まれ、イエス様のおられる屋内に入れない。ここまで来たのにと天を仰いだでしょうか。そしたら屋根には人がおらん。パレスチナの当時の家は屋根が平らで、横柱に木板を渡した上から漆喰を塗った簡素な屋根の、しかも屋上に外から上れるよう階段の着いた家が多かったそうです。その屋根に上って剥ぎ取り、めくり、下には漆喰がバラバラ落ちて、イエス様は何事かと見上げられたと思います。そしたら畳一畳ほどの穴が開けられ、床ごと人が吊るされてきた。その人の手の曲がり具合なども見られ、一目でお察しなさったのでしょう。そしてその人々の、信仰をイエス様は見られたのです。体の自由は失っても、信じる自由は失ってない。何でも信じるというのでもない。神様の愛と憐れみを本気で信じて、この家の人には悪いけど、それでも屋根なら後で治せる。でもこの友はイエス様しかよう治さん。神様やったらわかってくれる。神様は信仰を受け止めて下さると、神は愛なりと信じてやった。体を張ったその信仰を見て、神様への本気の信頼をご覧になって、主は「人よ、あなたの罪は赦された」と、神の言葉を語られるのです。

権威をもって語られました。人の子の権威だと言われます。旧約聖書のダニエル書に、神様が最後の審判をなさるとき、この世の裁きが来る前に、人の子が神様の前に現われるとの預言があります。この場に来ておったファリサイ派や律法の教師たち、要するに当時の宗教的エリートからしたら、人の子といったら裁きに関係するメシアです。この世で罪を犯している罪人を裁くために来られる神の国の支配者メシアが、この人の子であると、そう考えておったのに、イエス様が言われる人の子の権威は、人を裁く権威ではなく、人を赦す権威だと言われるのです。それが人となられた神様の言葉、イエス・キリストの語られる神の言葉の権威です。恵みによって人を救われる、赦しを行使される権威です。

そもそもイエス様はこの時に、群衆を教えておられました。癒しがメインではありません。神の言葉を教えることにイエス様は全力を尽くされておりました。そのイエス様の教えを聞いてか、屋根を剥がすほどに神様の愛を信じた信仰を見て、イエス様は笑顔になられたと思うのです。けれどそこには神様の権威を誤解したエリート達もおったのです。この後、連続で出てきます。そしてイエス様は彼らと言わば対決なさろうとされるのです。何故なら彼らの考える神様は、間違った裁きの神だからです。正しい人を救い、間違った人を裁く神。でも自分らは裁かれん。だって正しく生きているから。そりゃ少しは欲望によろめくし、怒りに身を任せることもあるけれど、けんど他人に迷惑はかけてない。言わば比較的軽いというか当然赦されうる罪について、無論、神に赦しは請うけど、人からどうこう言われたり、ましてやそれで責められたり裁かれる生き方はしていない。神が裁くのは、そうやって正しく生きてない者で、最後の審判はそのため用意され、正しいメシアが来るのだと、目を覆いたくなるほどの、ひどい誤解があるのです。

その彼らが、あちこちから集まって、調査団・イエス視察団を結成しイエス様の教えをチェックしに来た。その彼らのためにも、イエス様は神様の愛を教えられます。誤解を解いて、心を変えて、自分を信じるのはもう止めにして、悔い改めて神様を信頼しなさいと、彼らにも信じて欲しいと教えられます。

屋根を剥いだ人々に信仰を見られたイエス様です。調査団の心の内をも見られたのかも知れません。顔や態度に出ておったのではないかとも思います。どんな神を信じているのか、何を信じているのかは案外見えるのかもしれません。だから彼らにも神様の、救いの福音を伝えるためにも、イエス様は敢えてこの中風の人に、癒しではなく、赦しの宣言をされるのです。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と訳された言葉、「知らせるために」という言葉です。どうしても知らせたいのです。神様をこの人たちにも知って欲しい。信じて救われて欲しいのです。

赦しを信じてないからです。大切に思ってもないからです。罪を赦して愛しなさいと教えられる神様など信じてはいないファリサイ派・律法の教師たち。けれどイエス様は彼らをも、見捨てることができません。愛の対決をなさるのです。神様の権威が、どんな権威か。ハッキリされるのがこの場面です。既に、神様の権威がどんな権威か、この福音書は語ってきました。権威のある神の言葉に、悪霊は追い出され、病も汚れも去るのです。人から罪が去って清められるとは具体的にはどういうことか、それがここでは教えられます。罪を犯した責任ゆえに、重荷を負って、後ろ指を指され、罪ゆえに責めを受け、責められることを、罪責と言います。神様の権威はその罪責を、人から去らすことができる権威だと言われるのです。重荷を負う者はわたしのもとに来なさい、わたしが休ませてあげようと、イエス様が招かれる所以です。ご自分で代わりに負われたからです。十字架の上で負われたからです。そしておっしゃって下さるのです。あなたの罪は赦された。あなたは罪責を降ろしてよいと。あなたに後ろ指を指すことをも、わたしは誰にも許可しない、あなたの罪はわたしが負ったと、人を縛り付けて不自由にする罪責から、罪ゆえに責められる苦しみから、キリストは私たちを解かれるのです。

ファリサイ派は人を責めます。キリストは赦して下さいます。そして赦せと言われます。次に出てきます徴税人レビも、ひょっとするとこの中風の人も、ずっと後ろ指を指され続けてきたのかもしれません。自分の責任だ、自己責任だと、非難を負わせられてきたのかも知れません。非難は当たっているかも知れません。それでも神様は赦されるのです。そのために人となられて来られたのです。わたしが責任を負うからと、愛はその人を負うのだと、不自由にされていたこの人を負ってきた友のように、主は私たちの罪責を負って、共に歩んで下さるのです。

あなたの罪は赦されたと言うのと、起きて歩けと言うのとでは、どちらのほうが易しいか。結果が見えんほうでしょう。口だけだったら幾らでも言えると。だから口だけではないのだと、キリストは結果を見せられて、じゃあ結果が見えにくい罪の赦しも今なら心に見えるでしょう、神様の赦しが見えるでしょうと愛の説得をされるのです。口だけの権威ではないのです。救いは口だけではないのだと十字架を負われて宣言されます。あなたの罪は赦されたと。命を償って下さいます。この愛に応えて生きるとき、人は自由にされるのです。神様を愛して人を愛する、主から教えられた自由な道へと、赦し赦されて歩めるのです。