10/1/10朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書3:1-22、マラキ書3:1 「十字架を映す洗礼」

10/1/10朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書3:1-22、マラキ書3:1

「十字架を映す洗礼」

 

罪が赦されるというのは、今一度自分の事として考えてみると、中々複雑なものだと感ずるのではないかと思います。人間関係で考えたほうがわかりやすいかもしれません。私などは本当に神経が細く、誰かから嫌われるというのが、うんとストレスになるタイプの人間でして、よくまたまた~誰が神経細いって?と笑われるのですが、私の愛のなさ故に誰かを傷つけて関係がこじれてしまうと、胃か神経に来るタイプのようです。私だけではないと思いますが、誰かから赦されてないという思いから、眠れない夜を過ごすのです。けれども、どうしてそんな羽目になるかというと、罪を犯したからです。人間だものでは済ませない具体的な傷、痛み、破れ、怒り、旧約聖書が呪いという言葉で言い表した様々な苦しみが生じればこそ、罪は具体的な人生の敵として悪として決して無視できる存在ではありません。相手との関係を壊してしまい、自分もそこから苦しみます。また、そうやって苦しむが故にこそ、その罪を、相手の方が赦してくれて、仲直りすることができたときには、まさに、重荷が降りたという気持ちになります。嬉しい!と素直に思います。

そうやって罪が赦されるというのは、とても嬉しいものである反面、そこで呑気に浮かれていることもできんのです。相手も苦しんだし、どうして苦しんだかというと、私が苦しめたからなのです。そりゃどうしたって、そこには悔い改めが要るのです。心から嬉しいのだけれども、手放しに喜べるというよりは、やはりそこにはまだ犯された罪に対する悲しみや、もう二度と同じ事はしないという決意や、そのための具体的な方策や生き方の変革など、色々なものが、罪が赦されるという場面では起こります。罪の赦しを考えるとき、またその洗礼を考えるとき、やはり罪そのものの悲惨さを考えることなしには、またその悲惨な関係の破れが、赦しによって繕われることの嬉しさを思い出すことなしには、ここでの洗礼者ヨハネの真剣さは、受け止めにくいかもしれません。

ヨハネは、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた、と訳されましたが、得させるため、と訳されると、何か誤解されそうな気もします。クリスマス前、しばらく洗礼について説教しましたとき、洗礼は、キリストの内に突入するのだと言いました。ローマの信徒への手紙6章に、キリストに突入する洗礼を受けた私たちは、キリストの死に突入する洗礼を受けたのだ、と直訳で言いましたが、やはり洗礼だからでしょうか、同じ言葉で言われるのです。罪の赦しに突入する悔い改めの洗礼を説教していたと、そう書いてある。中心は、罪の赦しです。洗礼は、そこを目指してないと、的を外してしまうのです。

そして、どうも的外れに洗礼を受けに来た群集が、中にはおったようで、ヨハネは母のお腹の中におる時から聖霊様に満たされた預言者として、その人々の態度やおしゃべりとかからパッと見抜けたということでしょうか。的確な、的を射た、彼らの救いのための急所を貫いた言葉を語ります。「マムシの子らよ」。神経の細い私にはよう言わんと、その時の空気や人々の反応を想像すると、可笑しくなります。毒蝮三太夫さんという役者さんがおりまして、名前も豪快ですが、表情も豪快で、且つコミカルな、そうした群集の驚きを想像するのですが、ヨハネも案外、真剣さの中にもユーモアを交えて選んだ預言的発言ではなかったかとも思います。蝮は腹に毒があります。でも来た人々は、自分たちの毒が、まさか私と神様との関係を毒殺するとは、確かに人との関係は殺しうるけど、その毒が、それほどまでに危険なものだとは、そんな罪を自分が持っていて、それはどうしても赦されるほかないものだとは、全く思いもよらなかった。…のではありますが、では、私たちはどうすればよいのですか?と尋ねるのですから、この言葉は人々の心に届いたのです。届いた胸の奥に、確かに自分すら殺す毒があると、この人々は気づいたのです。私の犯した罪の報いが、神の怒りと呼ばれるほどに、神様と私との間を引き裂いているのだと、彼らは自分の毒が引き起こした悲劇をかいま見ることができました。聖書で用いられる罪という言葉は、的を外すという言葉です。でもその的に、彼らは心を向けました。自分の罪に目を向けるのは中々できるものではないのですけど、この罪は赦されなければならないと、この的の中心に目を向けるとき、まさにその的のど真ん中から、罪の赦しへと突入する道が、グンと開けていくのです。

その道を、罪の赦しに突入する道を整えるため、ヨハネは悔い改めの洗礼を説教しました。悔い改めとは、グルッと方向転換することです。私たちがそれぞれ自分の行きたい方角に、的を外し、道を誤って進んでいって、そのまま行ったら道が切れちゅうその道を、グルッと方向転換して、それまで背を向けていた神様の道に帰っていく。それがヨハネの整えておった「主の道」です。教会のど真ん中を貫く道であり、洗礼を受けた私たちが地の塩・世の光として、遣わされたところで整えていく道でもあります。そこを通って救い主が来られる道があるのです。罪が正しく赦されるために、犯された罪を償うために、私たちのもとに来て下さった、主の道に帰るのです。そこで主に出会います。その愛の中に突入するのです。主の内にある罪の赦しに突入するのです。

それは罪が赦される道であって、自分で罪を償う道ではありません。自分で正しいと思うことをすることによって、言わば天に向かって償いの道を上昇していく道ではないのです。それは思いの上がった人間の道ではあっても、主の道ではありません。主の道は、むしろ下に向かって下降される道、地を這う人間に向かって、うずくまる悲惨に向かって、犯される罪に向かって、神様が、その罪を身代りに引き受けて死ぬために人となり、死んで陰府にまで降っていかれる、下降の道です。人は、この降られた神様の償いに抱きしめられて救われます。

ですからヨハネも、では、どうしたら良いですかとの問いに対して、赦しに突入する悔い改めを説く中で、何一つ罪の償いを頑張ってどうのとは言いません。今までは自分の道を歩んでおったけど、これからは主の前に出て、主の道に生きるようにしなさいと言うのです。具体的には人として当たり前のことしか言うてません。分けてあげなさい。盗んではいけない。誰でもできる当たり前の生き方です。でも当たり前のことを、ようできんのが人間です。的に当たってないのです。けれど、自分の道におったらできんそのことを、主の道に帰ってやればよい、小さなことですらできん私たちが、でも主の前で、その小さなことに本気になって取り組めばよい。主の愛の業に励めばよいと、赦しの福音が語られるのです。悔い改めるということは、何か凄いことをするのではないのだと。小さなことすらできん私たちが、その小さなことをできるように主は私たちを受け入れられて、わたしがあなたを受け止めているから、この小さな愛に生きてごらんと、道を支えてくださるのです。

この新しい道が開かれるため、キリストは天から降られました。どうやったって償いきれない罪の償いを終わらせるために、神様ご自身が人となり、私たちの罪を償うために、人間全体の総数よりももっと大きないのちを捧げ、私たちの身代りとなって十字架で死んで下さいました。この十字架の道を言うのです。罪の赦しに突入せよと、わたしに飛び込んで来たらよいと、あなたを受け止める準備はできていると、神様のほうから来て下さった救い主イエス・キリストの道を、これが罪の荒野に整えられた、私たちを罪から救いだす主の道であると言うのです。

私はその道に歩みたいと、心が的に当たった人は、洗礼を受けてよいのです。悔い改めの洗礼を受けて、人生が赦しに方向転換したことを告げる救いの洗礼を受けるのです。イエス・キリストの償いは、あなたのためだということを、はい、と言って受け入れる喜びと、罪を罪として悲しんで、これからは主の道に生きていきますと、生き方を方向転換させてもらえる神様の力を、主であるイエス様が下さるからです。

それをヨハネは、聖霊と火による洗礼と言いますが、わかりやすく言うと、罪が火によって燃やされるのです。永遠に残るべきものが残るため、あってはならないものは燃やされます。じゃあ聖霊様による洗礼というのは何か。すぐ思うのは、イエス様が洗礼を受けられた後で聖霊様がイエス様の上に降られた、この洗礼です。でもそもそも何でイエス様が洗礼を受けなければならなかったか。悔い改める必要のない罪のない神様が、それでも罪の赦しの洗礼を受けるというのは、何なのか。それはイエス様が、生まれて8日目にも既に割礼を受けられたように、主が私たちの身代りとして、私たちの罪を受け、私たちが受けるべきものを全部受け、その代わりに私たちが主の道に生きられるように、主の愛と平安と祝福を受けられるように、罪を背負って私たちと一つになられる洗礼を、イエス様はここで受けられたのです。聖霊様が降られたのも、そのことの保証としての降りです。聖霊様が、あなたは皆の罪が赦されるために、ここに罪人と一つになりますよと、その代わり、私は罪赦された人々のところに降って、その人をあなたと一つにするのです。ここに神様の愛の救いがなりますよと、励まし慰めを与えつつ、キリストに罪の身代りの小羊としての、聖なる任職式を執行されたのです。

そして父なる神様もまた、その通りだ。あなたはわたしの愛する子、わたしの心にまっすぐに適って、あなたは失われた者たちを救うために人となり、ここに身代りとしての洗礼を受け、あなたは十字架に上っていく。見よ、わたしはそのあなたを心から喜ぶと、これから十字架の道を歩まれる御子に、父としての喜びを、しかし複雑な喜びを告げられます。御子は罪の裁きを受けるのです。何一つ悪いこと、父を悲しませ、苦しめることなどしていないのに、十字架で神の怒りを受けるのです。それこそ罪を燃やし尽くす永遠の業火で、キリストは十字架の上で焼かれます。私たちの罪を背負って焼き払われます。そして、私たちの罪の償いをされるのです。

私たちの救いのために神様から差し出された洗礼は、このキリストの唯一の洗礼に突入して救われる洗礼です。キリストに抱きかかえられ、罪赦されて救われます。救われる他ないのです。赦される他ないのです。この主の道に救いがあります。神様の愛に生かされる道があるのです。