10/1/17朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書4:1-15、申命記8:2-3 「聖霊様の力ある言葉」

10/1/17朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書4:1-15、申命記8:2-3

「聖霊様の力ある言葉」

 

イエス様もまた父なる神様から試練を受けられました。父なる神様を信じて、この身をお委ねするか。それとも信じないで、自分でやるか。どっちで生きるかと試されたのです。

このことは、ちょっとわかりにくいことかもしれません。イエス様は私たちと同じ人となられはしましたが、尚、神様であるから、誘惑などされないのではないか、何でも言わばスーパーマンのように解決してしまうのではないかと、ともすると思ってしまうところがあるかもしれません。けれども、ここで悪魔は時がくるまでイエス様を離れたと言いますが、その時が再び来た時、イエス様がどれだけ苦しまれ七転八倒されて試練を耐えられたかを思い出したらわかるのです。十字架に架かられる前の晩のゲツセマネの園で、イエス様は、この杯を取り除いてください、この呪いの杯を飲むのはやっぱり恐いです、恐ろしいです、父よ、あなたから見捨てられ、罪人として破棄されて、人類のすべての罪に対して注がれるべき神の怒りを、すべて身に負って一人死ぬのは、いざとなったら勇気がありませんと、イエス様は地を這いずるようにして天の父に祈られます。神様が人となられて苦しみを受けられるというのは、そこまで人になられるのです。まるで神様ではないかのごとくに、無様な姿になるまでに、死体となってしまわれるほどに、神様は人となられます。そこまでして私たちの身代りになられたイエス様が、ここで試練を受けられます。人類の身代りとして人となり、同じ弱さを身にまとったあなたは、じゃあその弱さ故にわたしを信頼するか、それとも、その弱さ故に自分でやろうとするかと、私たちと同じ試練を受けられます。

私たちのこととしたらよくわかるのです。神様を信じるというのは、単に神様の存在を信じるのではなくて、神様が私の造り主であり、また救い主として、私を一人の人格者、責任者として見ていて下さり、その罪を真剣に取り扱い、赦してくださり、責任ある人生を生きるようにと使命を与えて下さっている、その神様を信頼すること。神様の愛の御心に身を委ねて、信頼します、あなたの御用のためにお使いくださいと、献身のしるしとしての献金で、そう祈るように、また献金の賛美歌で、この私をお使いくださいと歌うように、私そのものを神様にお委ねしてしまう。これは祈りとしては、そう祈るのですけど、人生の様々な場面では、祈りきれない、委ねきれない、信頼しきれないところというのはあるのではないかとも思うのです。

それを弱さと呼ぶか、罪と呼ぶかは、呼ぶ人の態度にもよるかもしれませんが、どっちか、と判断するのは難しいところがあります。罪へと誘惑され易い弱さもあれば、弱さを言い訳にしてしまう罪もあります。神のみぞ知るとは、このことでしょう。でも、罪なら赦して下さるし、弱さであるなら助けてもらえます。いずれにしても神様が、私たちを、そのままで放置されることはありません。罪があれば尚更です。それは必ず裁かれるからです。だからこそ、神様は愛する独り子を世に生まれさせ、その罪を全部イエス様の肩に委ねられました。あなたはこの罪を受けて死ぬかと、身代りに裁かれて罪を赦すかと、この者たちの救い主として、あなたは生まれて、そして死ぬかと、三位一体の子なる神様に父は聴かれて、父よ、それがあなたの御心であり、またわたしの心です。彼らは救われなければなりませんと、御子は人としてお生まれになりました。そしておよそ三十年の年月を経て、いよいよ十字架の救い主としての歩みを、人々の前で公に始められる、その一番初めのところにおいて、前回のところですが、イエス様はまず洗礼を受けられました。そして天の父からの声を聴くのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」だと。私たちの救いもそうですけれど、罪の赦しの洗礼によって、その御心に適う歩みが、公にスタートします。

しかし、この公に始まった救いの業は、誰もいない、誰も見ていない孤独な荒れ野で、独り試練を受けるのです。公の試練というのも、あるにはあると思いますけど、それでもそこで神様から試されるのは、あなたの心の内に、わたしへの信頼があるかどうか、です。試練は独りで受けるのです。神様を信頼するかどうか。神様から、あなたはわたしの心に適っている、と言われるかどうかです。イエス様ですら試されたのです。無論、それだけ本当にイエス様が人となられたということですが、それだけに、人の弱さというものが、一体どこに現れやすいか、神様は一番ご存知なのだと思います。独りのときに現れるのです。人は関係ありません。人前で信仰者としての正しい発言をしても、教育的意義はあるかもしれませんが、それが力ある信仰教育となるためには、その発言が、試練によって裏付けられた、聖霊様による力強い発言である必要があります。正しいだけでは足らんのです。14節で言われるのは、そのことです。イエス様は聖霊様の力に満ちてガリラヤの諸会堂で教えられました。まさしく、信仰教育をされたのです。その教育には聖霊様の力が満ちていました。言い換えれば、父なる神様から委ねられた救いの業は聖霊様によって初めて力を持つのです。力があるから何かが動きます。何も動いてないとするなら、そこには力が足らんのです。何が動いたかも問題ですけど、聖霊様の力がなければ、人が救われることはないのです。聖霊様に満たされるとは、この福音の言葉に満たされることです。

ここは教会の働きの急所です。たまに、牧師さんは布教活動をされているのですねと言われて、ん~布教活動と言えば言えんこともないろうけど、と返答に困ることがあります。聖書の教えが、人を良い方向に導く教えとして布教されても、じゃあそれでその人の罪が赦されて、死んだ後、裁きから解放されて救われるのかという切実な問いには、責任を持って答えることはできんでしょう。イエス様を誘惑した悪魔も、この点でまさに誘惑をするのです。イエス様に色々言うておりますが、罪については一切何にも触れません。腹が満たされる救いは言います。力が満たされる救いは言います。安全が、しかも神によって安全が満たされる救いも言いますが、神様によって罪が赦される救いは言わんのです。それが悪魔の誘惑です。罪以外のものに心を向けさせ、裁きから目を背けさせる働き。それが、誘惑と呼ばれるものでしょう。これをやっても裁きはないと、裁きを見えんようにするのが誘惑です。

この点において私たちは今どれだけ多くの誘惑に遭っているだろうかと思います。聖書が、偽りの教え、あるいは他の福音と呼ぶ、裁き抜きの教え。あるいは裁きを語っていても、軽く、十字架抜きで、人間の力で何とかなる程度の裁きを教える律法主義など。使徒パウロがガラテヤの信徒への手紙の冒頭で、そういう別の福音を教える者は呪われると、きつく注意をした、十字架の裁き抜きで済ましてしまおうとする誘惑は昔から教会を蝕んできました。福音のように聞こえるのです。満たされてないところがあるだろうと、自分の力でそれを満たせと、心にからみついてくるのです。人となられたイエス様も、この点で誘惑を受けたのです。イエス様がです。ここが人間への付け入り所だということです。神の子だろ、神様のご寵愛を受けているんだろ、信仰の力によって命じてみなよ、特別な力があるはずじゃないか、その力を、自分のために使ってみなよと、自分を満たせと誘惑します。愛されているなら満たされるだろ、お腹だって、銀行口座だって、仕事だって、家族関係だって、全部満たされて、不満なことなんてないはずだろ、だって愛されているんだろ、信仰の力で満たしてみなよと、悪魔は誘惑してきます。そして誘惑に翻弄されてきた教会の歴史は、ガラテヤの教会だけでなく、その後も続いていくのです。教会の歴史は闘いの歴史です。信仰とは何か、神様を信じて生きるとは、何を信じて生きるのか、ずっと闘ってきたのです。

イエス様は、その教会の闘いに先立って、人はパンだけで生きるものではない!と、人として、私たちの隊長として仰って下さったのです。人は神様の霊によって教えられる神の言葉に導かれ生きるのだと、主は私たちの闘いに先駆けて、勝利の先陣を切られたのです。

満たされないのが人間です。そして満たされたいのも人間です。そのような私たちが、どうやったらそれでも満たされて生きていけるか。何によって満たされたら、他の部分が満たされなくても、不満を抱えずに生きていけるか。三位一体の神様の霊、聖霊様によって満たされたら、人は満たされて生きられるのだと、イエス様は仰ってくださるのです。こうやって生きてごらん、聖書の言葉を信頼して、その言葉が証しする神様を信頼して生きてごらんと、イエス様は私たちの闘いの先頭に立って、道を開いてくださいました。キリストが教会の頭であるとは、このことにおいても、また真です。

世の誘惑は避けられません。しかし、そこに主が共にいて下さることも、誘惑以上に避けられません。試練の時には尚のこと、主は私たちと共におられます。イエス様が試されたのも、聖霊様によって導かれて、神様の御手の内にあっての試練なのです。ならば尚のこと、弱い私たちが試練に遭うとき、聖霊様は既に準備をされています。霊の剣、聖霊様による剣と呼ばれている、聖書の御言葉、神の言葉による闘いが、既に用意されているのです。礼拝で語られる御言葉もそうです。毎週礼拝があることもそうです。私たちが神の子として生きていくために、神様はあらゆる恵みを下さっています。負けるという現実もあるでしょう。けれども、それ以上に真実な神の言葉の現実によって、私たちは生きていけます。イエス・キリストを下さった神様の愛の現実が、すべての現実を飲み込んで、私たちに神様を信じさせるのです。人となられた神様が私たちの罪を全部受け止めて、その裁きを全部引き受けて、あなたの罪は赦された、あなたは生き直して良いのだと、私たちに福音を語られたのです。そのために、ご自分がもがき苦しみ七転八倒して悩まれても、それでも、私たちの救いを選んで、ご自分を捨て、身代りとなって下さることで、神様の御心に適う者、私たちの主となって下さったのです。この神様に信頼すればよい。福音を信じて生きればよい。ここに私たちが信じ続ける、神様の心に適って教えられる、主の福音があるのです。