10/1/3朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書2:41-52、詩編122:1-5 「驚きの開幕」

10/1/3朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書2:41-52、詩編122:1-5

「驚きの開幕」

 

新年をお祝いして迎える、あるいは襟を正して、新年を迎えるというのは、やはり大切なことだと思います。少なくとも、心の襟を正して、新しい態度で新年に向かうことがないと、ダラダラ昨年と同じままか、昨年よりもっとダラダラになってしまいやすい、習慣病とでも呼ぶべき人間の体質が、昔の人は身に染みておったのかも知れません。

人間関係も同じです。お正月だけは、家族であっても丁寧に挨拶をして、今年もよろしくお願いします、と新しく向き合うのは、立派な知恵だなと感心します。でないと、人間関係がダラダラしてしまうというのは、本当によくあることだと思うのです。正月だけではないでしょう。お誕生日や、記念日を大切にするというのは、その日には、この人との関係に今一度新しく向き直りましょうということだと思うのです。その人のために祈り、その人がどういう人であるかを心に留め直し、その人を大切に慈しむ。そもそも、おめでとう、という言葉が、大切に慈しむという意味です。その人が、どういう人であるかを、心に刻み直して、大切に慈しむのは重要です。

クリスマスの夜、人としてお生まれになった、御子イエス様についても、その関係が一体どういう関係であったのか、いつの間にかわからんなってしまっておったことが、今朝の御言葉に記されています。マリアも、またヨセフも、天使から、イエス様のお誕生については、きちんと説明を受けていました。もっとも私たちからしたら、その話を聞いたのは、ほんの少し前のクリスマス礼拝のときですから、まだ鮮明に覚えているのでしょうけど、彼らからしたら、この時イエス様12歳ですから、もう12年以上たっています。それにしても天使から直接イエス様お誕生の告知があって処女が身篭り、その子は神の子と呼ばれるようになる、この民を罪から救うメシアであるから、その名をイエスと名づけなさいと言われて、出産の夜には羊飼いたちの訪問、40数日後にはシメオンの預言、そして数年後には東方の博士らの訪問によって、ああ、この子は本当に神の子なのだと、そのときはわかっておったはずなのに。それから10年以上経ってしもうたら、わからんなってしまうのです。ただ、わからんなりに母マリアは、エルサレムで起こったこれら一連のすべてのことを心に留めておりました。英語の訳では、宝物のように大切に保管していた、という訳があって、いい訳だなあと思いました。そういうことだったろうと思いますし、私たちにもそういうことってあると思います。聞いたことが、どういうことだか、わかったわけではないけれど、これは何か大切なことではないかと、きっと大切なことなのだと、心のどこかで大切にしている。大切だけど、わからないことがある。

マリアとヨセフの場合、何がわからんかったかと言うと、イエス様の言葉の意味がわかりませんでした。何と仰ったか。「どうして、わたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」知らんかったから捜したのですけど、あるいは、神様が神殿におられるのは当たり前だというのは知っておったけど、それがイエス様に該当するというのは知らんかったということでしょうか。なら、天使から、この子は神の子と呼ばれると聞いたとき、それがどういう意味だか、よくわからないままに、そのままにしておったということかもしれません。漠然と、この子は神様がお与えくださった救い主だということは、おそらく疑ってはおらんかったでしょうし、知っておったと思います。わかっておったと思うのです。けれどもその意味を、彼らは自分なりに解釈をして、その曖昧な解釈のまま、いつの間にか、それで納得してしまっておったということでしょうか。

人間関係も、また神様との関係も、そうやって固定化をしてしまうのです。この人は、こういう人。神様は、こういう神様。そこから問題が生じます。私たちのよく知っている問題だと思います。最初からそうではなかったのです。最初はもっと知りたかった。え、こんなことができる人だったのか。へえ、そんなところがあったのか。驚きと共にその人を知ることが一種の喜びでもありました。マリアとヨセフも、神様から与えられたイエス様について、羊飼いたちから聞かされたり、預言を受けたりするたびに、驚きと共に受け止めていました。この福音書が記すクリスマスには、実に驚きの場面が多いのです。新鮮な思いで聞いたのです。けれど、五年、十年と経つうちに、その新鮮さは消えていきます。毎日ダラダラと過ごしておったとは思いませんが、それでも関係があせてくる。いや、その人に対する向き合い方が、ナアナアになってしまうのです。

それはある面、仕方ないことでもあるでしょう。人は、もうわかっていると判断されたことは、それを改めて記憶に留め直そうとはせんそうです。これは大事だという最小限の大切なことだけ、パッと意識して、思い出せるようにしているのだと認知科学では言われています。なら、誰かに対する向き合い方が、ナアナアになってしまうのは、その人とはナアナアになっても大丈夫だと判断しているからでもあるでしょう。この人は、あるいは神様は、これこれの押さえ所だけ押さえちょったら、まあ、後はナアナアでも大丈夫やと。

けれど私たちは多分もう知っています。その押さえどころが、いつも問題の種になります。押さえどころがブレちょったことを、何か問題が起こってから知るのです。いや、間違うちょった、あなたのことをわかってなかったと改めるなら良いのですけど、いや、私は間違ってない、そんなことで一々言うあなたが間違っているとやってしまったら、大切に慈しむべき、その宝物のような相手の存在を、やはりわかってないということになるのかもしれません。たとえわかってなかったとしても、それでも、宝物のように大切にすべき真実があるのではないかと、聖書は私たちに告げるのです。

その宝物を改めて大切にするために、父なる神様はその御子を敢えて神殿に留められ、主もそのことを、わかっておられたのだと思います。マリアとヨセフは改めて、イエス様に出会い直す必要があったのです。そして私たちにも、神様は、そうした機会をお与えになっておられると思います。神様に慣れ親しむのは望ましいことです。けれど慣れ過ぎてぞんざいになるのが人間です。押さえ所がブレて、神様に対する態度がブレていく。人への態度でも同じでしょう。自分では思ってなくても、ぞんざいな態度になってしまう。

そんな、愛にさ迷い、自分にさ迷う私たちを捜し出し、本当に慈しむべき愛の関係に留められるため、主は失われた者の羊飼いとして来て下さいました。イエス様が、どうして私たちのところに来られなければならなかったか。どういう方としてこの方は来られ、そして十字架に釘打たれるほどに、私たちを愛し、受け止め、受け入れてくださったのか。どうして神様が、私たちの罪を赦すため、御子を十字架にお架けくださらなければならなかったのか。この押さえどころを、すぐに見失ってしまう私たちのために、キリストは私たちの主となって下さったのです。愛を見失い、すぐ宝物を失って、自分も失われた者となってしまう私たちを、でも神様はご自分の宝物として捜し見つけてくださる方である。神は愛ですと、キリストは私たちに告げるのです。

この神様の愛を大切に心に留めるのです。私に与えられた大切な宝物として、常に思い続けて慈しみつつ、新しい年も歩んでいきます。その愛に新しく慰められる喜びに、導かれ、共に歩ませて頂けるのです。