09/12/27朝礼拝説教@高知東教会
ルカによる福音書2:22-40、イザヤ書42:5-7
「幼子に照らされて」
クリスマスの次の主日礼拝を、その年の最後の礼拝になりますので、歳晩礼拝と言います。一年を朝から晩までの一日に見立てて晩と呼ぶ。歳の暮れとも言いますし、日が暮れて暗くなっていくイメージは、丁度冬至の時期とも重なっているからでしょうか。ちょっと寂しいような、夕暮れのような気分がやはりあります。一日の終わりに、今日あったことを思い巡らし、あるいは反省するように、今年一年を反省するということも相応しいことだと思います。けれども自分を責めるようにして、気分まで暗い雰囲気に支配される必要はありません。クリスマスを迎えての歳晩なのです。これから一年が終わろうとする時に、救い主のお誕生を祝って迎える歳晩です。振り返って一年を反省するときも、明るい光があるのです。
歳晩礼拝という言葉をワープロで打つと、私のワープロだけかもしれませんが、裁判所の裁判という言葉が出てきまして、何か、お前はこの一年、ろくなことをしてこなかったじゃないかと裁判にかけられているような気がして、ドキッとしました。クリスマスが過ぎてドッと疲れが出てきたのか、ちょっと気分が憂鬱になっていたこともあって、本当に自分を責めるような思いになっておりましたとき、ふと、頭をよぎった御言葉がありました。夕暮れになっても光がある。いい言葉だなと思いつつ、さて、どこにあったろう。確か旧約の最後のほうの預言書だと、頁をあちこち探しましたが見つかりません。ああ、私は御言葉を教える教師なのにと、ますます気分が落ち込んで、外は日が落ちとっぷり暮れて、はぁと溜息をつきながら、主よ、最後のトライをします、こういうことをしたらいかんと思いますけど、ペラッと聖書をめくりますから、そこになかったらあきらめます、と、どうせ無理やろうとペラッとめくりましたら、ゼカリヤ書の14章7節。夕べになっても光がある。わ、あった。途端に嬉しくなりました。そして同時に、どうせ無理やろうと、神様を信頼してなかった私なのに、神様が憐れんで下さったと、心からごめんなさいという思いと、こんな私でも神様が愛して下さっているという感謝で泣きそうになりました。夕べになっても光がある。私たちの救い主としてイエス様をお与え下さった神様が共におられるから、夕べになっても光がある。神様が共にいてくださる光がある。
シメオンとアンナという人が出てきます。歳を召された先輩方です。人生の晩年という言い方もありますが、私たち人間の一生を朝から晩までの一日に見立てたら、晩年という言い方になるのでしょう。シメオンは、もう死なせて下さってもかまいませんと言うのですから、どうしても死を意識する御言葉を、神様はここで語っておられます。でも暗くはありません。夕べになっても、光が輝いているからです。晩年を迎えた二人の顔を、御子イエス・キリストが照らしています。二人の人生の夕暮れは、明るい夕暮れとなりました。キリストをお迎えして迎える暮れは明るい暮れになるのです。
シメオンが抱いていた救い主は、このときまだご自分からは何もしておられません。腕に抱かれておっただけです。ここまで運んできてもらわんかったら、自分の足では来れんくらい、まったくの受身です。ともすると、救い主というのは、何かしてくれるから救い主だと認められるのであって、何もしてくれんなら信じるに値せんと思われることがあるかもしれません。でも、そこで期待される、してくれること、というのは、どういうことをして欲しいのだと望んでいるのでしょうか。何から救われたいと私たちが望んでいるか、逆に考えさせられもするのです。クリスマスの御言葉が既に語った神様の救いは、1章の77節で言われています「罪の赦しによる救い」です。私たちの罪が赦されるため、死んだ後に神様の前で裁かれる、死後の裁きから救われるため、神様は御子を救い主として生まれさせてくださいました。私たちの罪を身代りに背負って、十字架で裁きを受けて死なれるためです。裁きを受けるため、御子なる神様は人として、私たちと同じ肉体と人生とを受けられます。教会が受肉と呼ぶ、人としての生涯を、受ける決意をされたのです。最初から、救い主が私たちのためにして下さることというのは、幼子のように受けることでした。けれども積極的に受けられるのです。自分自身は受ける必要のない苦しみを、誰かのために受けるというのは、どんな自発的行動よりも優れています。愛は与えるというのは確かです。でも赦しと命を与えるために、苦しみを受けるという愛に勝る愛はありません。キリストは、私たちを丸ごと受けて下さって、トゲトゲにとんがった私たちを、ドロドロに腐った心も全部、全部、受け止めて抱きしめて十字架の上で私たちを隠すようにして、この罪は全部わたしが受け止めますと、裁きを受けて下さいました。
その救い主が与えられるのを、シメオンは、ずっと待ち続けておったのです。この方が来られんと、私は死んでも死にきれんという思いで、十字架のしるしを抱いた幼子の到来を、ずっと待ち望んでおりました。そして、とうとう聖霊様に教えられて出会うことのできた救い主、まだ生まれて一月程の幼子のイエス様を笑顔で抱きながら、もうこれで死なせて下さってもかまいませんと神様を賛美します。もう本当に嬉しかったのだと思います。私の罪も悩みも全部引き受けて下さった救い主を、お受けすることができた。救い主を受け入れる喜び、そしてその救い主に受け入れられている平安が、渾然一体となって、私は主のものです、あなたに属する僕です、もう本当に死んでもかまいませんと、キリストの救いを頂いて満足します。土佐弁で、死ぬことを、みてる、と言います。どんな意味かと年配の先輩に尋ねたら、きっと寿命が満ちたという意味やろうけんど、改めて思うたら、えい言葉やねえと言われました。シメオンは自分の死を見つめつつ、その死が自分の抱いているキリストに抱かれていることを知って満足し、死を受け入れます。もう満ちた、いつ満ててもかまんですと、キリストに抱かれた自分の生と死を、この幼子に見るのです。私が生まれてきたという命の意味が、ここに満ちたという思いだったかもしれません。完全な人生などないのです。けれどキリストが来てくださったら、いのちの意味が満たされます。そして、自分の人生も死も受け入れて、不完全な人生ではあっても、キリストがこれを受け入れて下さったのだと、おだやかに神様に向き合うことができるのです。キリストが、私たちを丸ごと引き受けて下さるのです。
シメオンは、この救いの喜びに満ち足りますが、死の厳しさを見ないようにしているのではありません。ただ、これを受け止めてくださったキリストを見つめているのです。彼はマリアに十字架を告げます。そのときは真剣な顔で告げたでしょう。罪赦すための救い主として生まれたこの子には、十字架のしるしが刻まれている。多くの人が反発をする。神様が罪を負って死ぬことで私たちの罪が赦されて救われるということに。罪なき神様が罪を負って死ぬ以外に、死後の裁きは通り過ぎることができんという救いに対し、多くの人が反発する。心の内に秘められた、そんな身代わりは必要ないという思いが、あらわにされてしまうのだと、シメオンはまるで神様の心の痛みを代弁するように、腕の中の幼子が引き受けられる、死の厳しさを告げるのです。罪の厳しさがあるのです。神様に反発し、神様の救いに満足できない、人間の厳しさが、十字架の上であらわにされます。この裁かれるしかない罪の厳しさを、しかし、神様は、その十字架の上で受けられたのです。これを受け止めない限り神に背くあなたに赦しはないからと、十字架の上からキリストは祈られました。父よ、彼らをお赦しください、何をしているかわからないのですと。だから私たちは救われます。罪を赦していただけるのです。他にどうやったら赦されるでしょう。しかし、赦されているのです。赦しを祈って下さったのです。キリストが、裁きを満たして下さったのです。
シメオンは、このキリストが下さる救いを、私はこの目で見ましたから、だから、満ち足りていつでも死ねますと、キリストの救いを語ったのです。そしてこの救いの喜びは、自分の救いというだけに留まらず、世界の果てに至るまで、この十字架の光は届くのだと、キリストが地上に住む全ての人々の救い主として来られたことを、大きな喜びと共に告げるのです。彼がずっと待ち望んでおった救い主の慰めは、自分が満足したらそれで満足できるようなものでなく、もう一人ここに登場する、年を重ねたアンナのように、皆に、この幼子のことを話さずにはおられない、そういう喜びの慰めでした。この84歳のアンナの姿も、忘れられない喜びの姿です。そんなに速うにサッサー歩き回れたわけではないでしょう。ゆっくり、よいしょっと歩きながら、皆にイエス様のことを話しておったアンナの姿も、夕べになっても光がある、という御言葉を、強く思わせる信仰の喜びの姿です。あとは満てるのを待つだけというのではないのです。朝な夕なに祈りながら、神様に仕えるアンナの姿に、キリストに照らされた夕べの満ちかたを思います。
クリスマス礼拝の後、カロリングを歌うため、95歳になる金田姉妹のもとを訪ねました。またその数日後にも姉妹を訪ね、呼吸をするにも、しんどそうに肩を上下させる小さな姉妹に寄り添いながら、共に聖餐式を祝いました。その後で、金田さん、うちの子がねえ、教会学校のクリスマスに、幼稚園のお友だちを連れて、お母さんも連れてきて、立派に伝道をしよりますよ、今日も、もう一人来ゆう牧師の子の教会学校に皆を連れてってねえ、うんと神様に用いられていますよ、お祈りをありがとうございます、と言いましたら、もう、うんとニコニコ笑われるのです。今年のクリスマスは二人洗礼を受けられましたよと言いましたら、もっとニコニコ笑われて、ああ、姉妹はずっと祈っておられるのだと思いました。朝な夕なに神様にお仕えし、人々の救いのために、心をこめて祈っておられる。御言葉を読みながら、その姉妹の姿を思い起こし、ここにも、キリストの光に照らされたアンナがいると感謝しました。
私たちもまた、シメオンやアンナの一人です。キリストがそのように私たちの生涯を照らすため、救い主として来て下さいました。だから、明るい歳晩を迎えられます。キリストの救いの光があるのです。