09/12/24クリスマスイヴ礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書2:8-21 「輝く喜びが訪れた」

09/12/24クリスマスイヴ礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書2:8-21

「輝く喜びが訪れた」

 

夜空で野宿する羊飼いたちの下に、最初の天使が近づいたとき、その足取りは軽かったろうと思います。聖書に登場する多くの天使は歩いて近づいてきますから、この天使もまた歩いて近づいたかもしれません。羊飼いの誰かが、ふっと気づいて、誰か来たよという感じでしょうか。そしたら溢れる光の洪水が彼らを丸ごと包み込み、主の栄光が周りを照らします。天から注ぐ光だったか、それとも天使の背後からか。いずれにせよ、おそらく天使の顔は見えません。まぶしく輝いておったのは、主の栄光であったからです。

栄光と訳されたもとのギリシャ語は、称賛とか評判という言葉が転じて、栄光という意味にもなりました。この方はこんなにも素晴らしい方であると、天地を造られた神様は、光り輝くお方であると、聖書は神様を表すときに、神は光であり、神には闇が全くないと、その栄光を称えます。神様には闇が全くなくて、闇を光で飲み込まれます。突然の光に恐れとまどう、羊飼いたちの闇もです。

当時、時の権力者、ローマ皇帝の威光によって、人口調査がなされていました。戦争のためかお金のためか、人が調査にかけられます。けれども羊飼いたちは除け者です。定住してない放牧のキャンプ人。町や村でも常によそ者。固定資産もありませんので、人口調査の当てにもされない。ローマ帝国の皇帝の威光は、彼らの闇を濃くします。世間の賑わいやお祭り騒ぎも、自分たちとは関係ない。時代を問わず、世の栄光を求める人間の手で、暗いところの人々は更に深い闇に追いやられます。救いなき人の栄光の所産でしょうか。

しかし、天地を造られた神様は、闇に追いやられていたこの人々を、救いの栄光で照らされます。人間が神様の栄光を理解し難い所以の一つかもしれません。見捨てられている人々を、神様は見捨てられることはありません。貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。後にイエス様が語られた福音です。何も持ってない人々にこそ、神の国のプレゼントは受け取られます。世界はこの神様の福音の光を、このとき、キリストと共に受けるのです。

光の中から声がします。恐れなくてよい。心配しなくてよい。恐れではなく、葛藤ではなく、戦いや争いや妬みでもない、自分や家族を苦しめる思いでも、責めたり落ち込ませたりする思いでもなく、あなたがたの心の中に、神様の平和があるように。御使いは祝福を語ります。その声を包み込む光自体が、世界創造の深淵にも似た、人間存在の根底にまで入り込んできて、光あれと、神様の光の言葉が届きます。あなたがたのために救い主が生まれた。家畜小屋で、飼い葉桶の中で、人間の貧しさにくるまれて、いと高き、光の中に住まわれる主である方が、けれども貧しき人間の代表として選ばれた、メシアとしてお生まれになった。罪を身代りに背負いほふられる、聖なる生け贄として生まれたメシア、ギリシャ語でいう所のキリストとして、イエス・キリストがお生まれになった。あなたがたに与えられる救いのために、神様とあなたとをつなぐ橋としてキリストは天から降ってこられたと、先ほどの天使が告げ知らせます。

羊飼いたちはそれを聴き、心を騒がしておったのでしょうか。そんな救い主の誕生があるのかと。人間の貧しさと悲しみに包まれて、神様が低きところに降られて、家畜の餌箱に生まれるなんて。私たちの一人になられるなんて。

その不可思議な誕生を裏打ちするように、更なる天使たちが、大軍となって現れて、先の天使の福音を後押しします。天の大軍と言うのですから、おそらく天に現れて、先の天使も一緒になって天から唱和をしたのでしょうか。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」天使たちの福音は栄光を語ります。いと高きところにおられる神様が、地の低いところにお生まれになって、平和の橋渡しをしてくださった。いと高き、無限の称賛を受けられるお方が、しかし、その栄光を脱ぎ捨てるようにして、家畜小屋の中の飼い葉桶の中で、貧しさに包まれ、低く降られ、やがて十字架で屠られる聖なる生け贄としてのしるしを宿しつつ、なのに平和に眠っておられる。この幼子の平安が、救いの平和をもたらすと、天使は福音を告げるのです。この御子の平和の福音が、神様の栄光を告げ知らせます。御子を犠牲とされることで天と地をつながれる愛と赦しの神様こそ、貧しき者が救われる神の国の称賛を受ける方!満点の夜空を埋め尽くす天の万軍の栄光の賛美が、既に天と地を貫いて橋がけます。この夜、言わば羊飼いたちの眼前に、天国が開けて見えたのです。

それ故、羊飼いたちが語り合う声には、もう喜びが芽生えています。「さあ、ベツレヘムに行こう。主が知らせてくださったその出来事を見に行こう。」救い主を拝みに向かうその足は、先に訪れた天使の足より、もっと軽やかだったかもしれません。急いで行ったと言われます。心から急いで行けました。彼らの鎖は外れていました。イエス・キリストの福音が彼らを賛美へと解放しました。

帰り道、彼らの歌った賛美歌が、天使たちの賛美と同じであったか、もはや知る由もありません。けれど、私たちは知っています。今は彼らも天使と共に、キリストの栄光を歌っていると。私たちもやがて加えられます。既に召された兄弟姉妹たちと共に、天の大軍に加わるのです。いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。

飼い葉桶の御子キリストの、救いの御心がなりますように。主の御心を共に求めましょう。