09/12/20朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書1:26-38、イザヤ書9:5 「喜びはいつも恵み」

09/12/20朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書1:26-38、イザヤ書9:5

「喜びはいつも恵み」

 

おとめマリアのもとに、天地を造られた神様からの知らせが届きました。おめでとう。直訳すると、喜びを!喜ぼう、嬉しいね、そんな喜びの言葉です。喜びが来た!と訳すこともできるでしょう。これを知らせに来た天使自身、嬉しそうな顔をしておったのじゃないかと思います。このときから歴史は一変しました。地上は、救い主が来られた地上になりました。マリアにはもちろんのこと、神様がお造りになったマリアと同じ地上に住んでいる私たちすべての人に、このときから、天に向かう喜びの道が開かれました。

マリアは、この喜びを、自分で作り出したわけではありません。喜びって、案外自分では作れんものです。外からやってくると言ってもよいでしょうか。東京に住んでおったころ、友人と仕事帰りの通勤ラッシュの電車に乗って話をしておりました。前の席には両目をギュッと閉じ、口を真一文字に切り結んだ、中年の疲れきった顔のサラリーマンとおぼしき男性が重い石のように固く座席に座っています。その男性の丁度上の辺りで立って会話をしておりました。どういう経緯か忘れましたが、友人が、それ見たことか、と言ったのを私が何故か聞き間違えて、ん?それ水戸黄門?と聞き直しましたら、前に座っておったおじさんがブッと小さく吹き出して、眉毛が八の字に下がっていました。疲れが少しでも癒されたなら良かったと私にも小さな喜びがありました。喜びって、そうやって訪れるものかもしれません。

時々、刑務所からお願いがあって、受刑者が牧師さんと話をしたいと希望が出ているが、相談にのってくれんろうかと言われ、訪れることがあります。それこそ閉塞した空間で毎日同じことが繰り返されて、心も閉塞してくるのでしょう。ほとんど唯一の喜びが食事という息が詰まる毎日。ある方は、もうすぐ出所するとのことで、さぞかし嬉しいだろうと思ったら、不安だと言います。外に出ても、また同じ過ちを繰り返さんかと不安でたまらない。自分の力を信じることが、どれだけ当てにならないことか身に染みて知っている。塀の外へは出られても自分の外へは出所できない。過去を完全には清算できない。でも、それは、誰もが同じだと思います。誰もが罪を負っていて、その罪から出所できない。だから、救いは、外からやってくるのです。受刑者の方々に、毎回同じお話をします。そして毎回、真剣な眼差しで、そのお話を聴かれます。自分という悲しみに閉じ込められたこの罪の世界に、神様は、救い主をお与えくださった。自分では開くことのできない道であればこそ、神様が、私たちの救い主となって世に来て下さって、私たちの罪を負って、十字架で死んで下さった。神様ご自身の命によって、罪の決算が執り行われ、すべての罪が清算されて、赦しの恵みが与えられました。造り主である神様が、同時に私たちの救い主、イエス・キリストとしてお生まれ下さって、私たちのための救いの条件を全部担って下さったのですとお話をすると安心をして一緒に祈られます。外からやってくる救い主のありがたさが、皆さん、骨身に染みてわかられるのです。喜びは外からやってくる。救いは外からやってくるのだと。

マリアを訪れた天使の知らせは、その喜びの始まりを告げました。人が自分では作れない、神様に支えられた喜び。私が作ったのではないけれど、私のために与えられた、神様が命をこめて用意してくださった、なくならん喜びがあるのです。

マリアは、その喜びの知らせを聞いて、戸惑ったと訳されましたが、天使の目に映った実際の場面は、もっと起伏に富んだ表情で、直訳すると、ひどく胸騒ぎがした、甚だしく困惑した、若者言葉で訳すと、パニくった、でしょうか。とにかく心臓がバクバクして、口が乾いて、頭が混乱して、何で神様が私のところに?という感じです。この後、天使の説明を受け止めて、私は主にお仕えする僕です、お言葉どおり、この身になりますようにと応える、謙遜で敬虔な方ですから、あまり大騒ぎはせんかったように訳したのでしょうけど、いきなり日常の世界の真ん中に、天からの扉が開いて神様の御使いが訪れたら、そらもう世界中の音がシン…と静まり返ってしまうほど、やっぱり、本当に本当に神様はおって、そこから天使が遣わされて来て、え、じゃあ、私はどうなるがと不安になるのは当然でしょう。神様から離れちょっても不安、神様が私の日常生活に訪れても不安。とにもかくにも人間は不確かな存在なのだと思わされます。

けれども、そんなマリアが口を開いて、私は主にお仕えする僕です、お言葉どおり、この身になりますようにと応えられたのは、本当に素晴らしい恵みだと思います。そうやって神様にお応えする道が開かれているのだと嬉しくなります。そこには厳かでありながら、且つ暖かな人のぬくもりと言いますか、人にもわかる神様のぬくもりと言いますか、愛のぬくもりがあるのです。暖かな言葉があったのです。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。神様にできないことは何一つないですよ。」マリアは、この後すぐにこのおばさんのエリサベトの家、結構遠いところにあったのですけど、遥々その山里まで尋ねていきます。ということは、その家も知っており、その家でマリアと再会したエリサベトとも、びっくりするような喜びの再会をするのですから、マリアとエリサベトの間柄というのは、うんと近い間柄、大好きなエリサベトおばさん、という関係だったのだろうと思います。エリサベトに子供が授かりますようにと、祈っておったかも知れません。エリサベトの信仰は、神様との信頼関係を大切にする、神様を愛する信仰でしたから、その信仰にマリアも良い感化を受けておったということもあるでしょう。その大好きなエリサベトおばさんに神様から男の子が与えられ、もう六ヶ月にもなっている!それを聞いただけでも、困惑した頭ではありながら、マリアの魂の奥底には、喜びが訪れたのだと思います。神様から、私が選ばれる、というのは、誰にでも受け入れにくいものかもしれません。けれど、愛する尊敬するあの人が、神様から選ばれて恵みを受けて、というのは、ああ嬉しいと思えるものです。神様すごいなと思ったのでしょう。スイスの宗教改革者ジャン・カルヴァンは、神様は、大人が子供に対して身をかがめるようにして、そうやって私たちが神様の愛を受け入れやすいように、その身を低くかがめられ、私たちに合わせて下さると言いました。マリアにも、その優しさが届いたのです。

最近、体が固くなってきて、子供とかくれんぼするのが辛くなってきました。礼拝堂でかくれんぼしようと言われても、講壇の裏やオルガンの裏に、身を小さくして、それこそかがむようにして隠れないかんのですが、これが結構こたえてきて、かと言って外で遊ぶのも寒いしと、身をかがめることの如何に容易でないことかを覚えます。毎日ニコニコして子供と遊んでいる人は、まっこと偉いと心から尊敬します。あんなに大勢から蹴られたり叩かれたり、よう気分を害さんことよと思います。それなのに子供というのは、私も大して変わりませんが、ちょっとしたことで気分を害して、あっち行ってとか邪険に言います。報われん悲しみが結構多くある。イエス様なんか本当に報われません。身を犠牲にして私たちのために仕えられ、神様が、私たちの救いのために仕える僕となられて、身をかがめてかがめて、皆の罪を負って低くなられ、それであっち行けどころか、十字架につけろと叫ばれた。今の日本文化に身をかがめて言い直したら、地獄に行けと皆から言われ、そういう、あっち行けと言われて拒絶され、その存在自体を否定されます。それでも神様は身をかがめられ、クリスマスの御子イエス・キリストに私たちすべての罪と闇とを担わされ、キリストを捧げ尽くして下さいました。十字架にかけられた御子の上に、人類の罪の決算が下されて、イエス様は命を捧げてくださいました。陰府に降って下さいました。けれど救い主の死の三日目に、その最低のところから、私たちのための復活の光が照り輝いて、天まで貫き通す永遠の救いの朝日となったのです。どんな闇の中にいる人にも、このキリストの救いの光は届くのです。陰府にまで身を低くされた救い主が、私たちのすべての罪の償いを引き受けられて、天に属する喜びを、私たちにプレゼントして下さったからです。

私は主のはしためです。言い換えれば、私は主にお仕えする僕です。私は神様に属する者ですと、マリアが神様に応えたのは、そのように僕となられた神様の愛が、心に届いたからでしょう。ほんのちょっとだったかもしれません。相変わらず、どうして私が、なんて、ちっともわからんかったと思います。でも確かに神様は来て下さって、私に教えてくださった。神様にできないことはありません。本当にそうやって、私の愛する人も恵まれた。私にも神様の恵みの業が起こるのだと、主の救いの器になる道がマリアの心に開かれました。神様が僕になって下さったから、マリアも僕になれました。神様が身をかがめてくださったから、私たちも謙ることができるのです。キリストが私たちを負われたから、重荷を降ろしてよいのです。神様が来てくださった。救い主として来てくださった。だから私たちは、すべての罪を赦されて、救い主をお祝いすることができるのです。