09/12/13夕礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書1:57-80 「光は垂直に射し込んだ」

09/12/13夕礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書1:57-80

「光は垂直に射し込んだ」

クリスマスが近づきますと、あちこちで人知れず讃美歌が流れているのを耳にします。きっとクリスマスソングという名称で流れているのだと思いますが、歌いなれた讃美歌が流れ出すと、つい一緒に口ずさんでいたりする自分を発見します。また、おそらく私はこの季節に一番多く口笛を吹いているのだと、先日ふっと思いました。やはりどこかで耳にした讃美歌を、いつの間にか下手な口笛で吹いていたりするようです。気がついて可笑しくなりました。やっぱり嬉しいのだと思います。

ザカリアの預言を読んでいただきました。朝の説教にも登場しましたが、彼は老年を迎えたある日、神様から遣わされて来た御使いの告げる神様の言葉を信じることができず、それが本当だと何によって知ることができるでしょうかと尋ねたものですから、じゃあ、その言葉が実現するまで、あなたの口が利けなくなる。それがしるしだと言われて、以来十月十日、妻のエリサベトが赤ちゃんを産むまで、じっと色々と考えておったようです。口が利けませんし、耳も聞こえなくなっていたようです。きっと口笛も吹けんかったろうと思いますから、もう一番楽なのはボーっとすることでしょうけど、それにしても、何かを考えずにはおれんかったと思います。そら、何を考えたかと言うたら、やはり口が利けなくなった原因でしょう。最初のうちは、ああ、しもうた、信じますと言っておけば良かったと、後悔したろうと思います。何で信じることができんかったのだろうと思い悩んだろうと思うのです。自分の頑なさ、つい言い訳をしてしまって、自己弁護、自己正当化をしてしまう弱さなど、青空を見上げながらだったか星を見上げながらだったか、何と自分の小さいことかと思い悩んだかもしれません。

けれど、妻のお腹が大きくなってくるにつれ、自分の小ささなど別にどうでも良くなってきたと、そういう変化もあったろうと思います。妻も既に老年を迎えておって、結婚してから、ずっと子供は欲しかったのですが与えられなかった。もうあきらめておったそのときに、御使いが遣わされて来て、あなたとエリサベトに神様は子供を与えられ、その子は主の救いが実現していくための道備えをするようになると言われた。ザカリアは敬虔な信仰者として主なる神様を信じてはおったのですが、この言葉だけは信じることができんかった。それで沈黙のうちに神様の御言葉の意味を、じっと考えて悟ることができるようになるという沈黙の恵みが与えられます。でもそれが恵みだとわかったのは、人間の力や考えではありえない、老年の夫婦に子供が与えられたとき、そしてその子がお腹の中でどんどん大きくなってきたそのときに、ああ、やっぱり神様から約束されたとおりだ、すべてには神様の深いお考えがあるのだと、悟ったのだろうと思います。

既に神様直々に、子供の名前はつけられていました。ヨハネ。主なる神様は慈しみ深い、恵み深い、また憐れみ深いという意味の名前です。もう名前からして、この子は預言者としての働きを既に始めているのだとも言えるでしょうか。父ザカリアは、口に出しては言えませんけど、心の中で、ヨハネ、ヨハネ、ヨハネと、何度も名前を口ずさんだのではないかと思います。神様は慈しみ深く、恵み深く、憐れみ深い。ああ、ほんまやと、静かな沈黙の中で、深く深く思わされたのでしょう。自分たちに子供が…ありえんもんなあと。しかも私は神様の存在は無論信じてはおったけど、その言葉を信じることができんかった、言わば神様のご人格を、そのまま信頼することを拒否して、まるで神様は信頼できんからと言うような、そんな自分勝手な事をしたのに、その私をさえ憐れまれ、主は深く慈しんで受け入れてくれ、子供を与えて下さった。私が信じんかったからといって取り上げられるのではなくて、それでも与えて下さった。まこと神様の救いはプレゼントや、恵みやとザカリアは、お腹の子供に語りかけておったかもしれません。ヨハネ、神様はまこと恵み深くて憐れみ深い、お前はそんな神様の深い恵みを名前そのものにまで受けて、救い主なる主に先立っていくために生まれてこようとしているのだぞと、利けない口で語りつつ、神様に、よろしくお願いいたしますと、祈っておったのではないかと思います。

そしていよいよ、この子が生まれ、名前を神様から頂いたとおりに、ヨハネと名づけたそのときに、以前は信じることができなかったザカリアが、信じれんかったザカリアが、今度はまわりの人々が神様の救いを信じれるように、神様のしるしとなるのです。閉じられていたザカリアの口がほどけたとき、人々は、ザカリアのうちに神様の救いのしるしを見たのです。神様の救いのご計画は本当に深く、そして慈しみに満ちていると思わされます。

ザカリアも心からそう思ったのでしょう。十月十日の解禁が解けて、開口一番、口をついたのが、ほめたたえよ、です。救いを与えて下さる神様の慈しみ深さ、恵み深さ、憐れみ深さを、ほめたたえ、賛美せずにはおれませんでした。私はこのザカリアの預言、おそらく詩の形、歌の形で語られた預言を読むときに、心にクリスマス賛美歌が聞こえるような気がします。明るいほうのクリスマス賛美です。イスラエルの賛美歌というのは、元気で踊るような賛美であっても短調の暗いメロディーが多いのですが、それよりも、もうちょっと明るい、開放感のある預言だと思います。内容はかなり重量のある重い内容ですけど、暗くはないのです。十月十日の沈黙を突き抜けたような、救いの明るさに満ちています。神様は救いを下さった、解放を下さった、私たちをあけぼのの光で照らして下さったと歌います。

その預言には、ダビデとかアブラハムとか、旧約聖書の歴代の信仰者が登場しますが、要するに、神様が、アブラハムやダビデなど、歴史を通じて約束し続けて下さった、世界全体に及ぶあの救いの約束が、今や実現したと告げるのです。イエス・キリストの訪れ、クリスマスの祝いが、そのメインテーマです。人としてはヨハネの後でお生まれになったイエス様は、世界の歴史を負って生まれてきました。神様の救いの歴史は、世界の歴史と同じだけ、長い歴史をもっています。神様が人としてお生まれになり、人類の罪を引き受けて死なれるという救いのご計画は歴史全体を引き受けるからです。少し難しい話になったかもしれませんが、74節で、キリストの救いは、生涯に関わる救いだと言われています。生涯と言っても、一人一人生涯がありますので、長い生涯もあれば短い生涯もある。でもその一人一人の生涯に、その人の歴史が刻まれます。歴史というのは、そういうもので、人格を持った一人一人が様々な人生を送ってきて、生涯を終えて、地上から去る。そういう歴史の積み重ねです。漠然とした歴史というのはありません。ダビデとか、アブラハムとか、名前をもっている一人一人が、それぞれの生涯で罪に悩み、また悩まされ、傷つき傷つけ、汚し汚され、そうやって重ねられてきた人類の生涯を、キリストは、私たちと同じ歴史に名を刻む者として、私たちの身代りとして生まれて来られ、十字架で償いをされました。生涯常に清く正しくはありえない私たちの生涯を、歴史を背負って生まれてこられた神の御子が、私たちを罪と裁きの鎖から解放してくれるとザカリアは歌うのです。

ザカリアが沈黙の恵みの中で得た、神様の救いの道が開かれていきます。神様が私たちを救ってくださるというのは、敵からの救いであり、解放だと言われますけど、じゃあその敵って何なのか。ザカリアは深く考えざるを得ませんでした。どうして沈黙せざるを得なかったのか。誰か外側から彼をそのように陥れたものがおったからか。そう言うこともできんわけではないでしょう。世の中の流れに流されてと、責任転嫁することも可能でしょう。でも自分はそれでは悪くないのか。敵は自分の中にもおるのではないか。深く静かな反省の中で、ザカリアは自分の内に住む敵を知ります。自分の暗闇を見るのです。死の陰に覆われるほどの暗闇です。死ぬことを思わざるを得ないような病、あるいは絶望。深い谷の中に閉じ込められ、幽閉されているような、そしてそこには光が届いてこんのです。そこから出たいと脱出を試みるが、うまくいかん。見えない鎖が足にからみついていて抜け出せん、這い上がれない。聖書が罪と呼ぶ闇がある。自分ではこれを解決して新しい出発ができない。人も、助けてはくれても、助け出すことができない。

その死の谷の暗闇に、ザカリアは、光がまっすぐ垂直に射し込んでくる幻を見たのでしょうか。死の陰の谷に垂直に降り注ぐ天からまっすぐ射し込んできた光の訪れ。普通、あけぼのの光といったら横から照らす光りです。水平の光です。人は、そういう水平の光を互いに照らしあって助け合うことはできますし、助け合わないとやっていけません。でも死の陰を吹き飛ばすためには、垂直の光が必要です。天からの光がいるのです。その光、罪と死の陰を吹き飛ばす、罪の赦しという永遠の光として、クリスマスの光は訪れました。御子イエス・キリストが生まれたのです。それは神様の憐れみの心によって、プレゼントとして与えられた無償の救いです。神様が、私たちの罪を引き受けて、全部償って下さったからです。新しくなって生きてよいと、キリストをお与えくださったのです。その救い主のお名前を告げるようにして、ヨハネはイエス様に先立って生まれてきました。そのことを76節は言うのです。幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。

神様が与えてくださった、罪の赦しという垂直の光。この光なら死に届きます。いや、いのちの道を照らすのです。脱出の道が見えなかった死の陰に、今や、脱出の道が照らされます。平和の道が照らされるのです。そこには賛美が流れています。神様が訪れて下さった、キリストがお生まれになられたと、我がこととして祝うのです。神様が、私の罪を赦すためキリストを与えて下さった。ここにクリスマスの光が輝いて、私たちの歩むべき道を照らすのです。

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