09/12/20夕礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書2:1-7 「愛に条件はいらない」

09/12/20夕礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書2:1-7

「愛に条件はいらない」

 

救い主は家畜小屋でお生まれになりました。馬小屋とよく言われるのは、おそらく明治時代に訳された文語訳聖書が、いま飼い葉桶と訳されている言葉を、馬舟と訳したからでしょう。私の好きな賛美歌121番も馬舟の中に産声上げ、というイエス様の生誕を歌っています。舟というのは、湯舟という言い方があるように、いわゆる桶のことです。そこに馬の餌を入れておったので馬舟と呼んでおりましたが、飼い葉桶と訳したほうが、イエス様のお誕生の場面をもっとリアルに映し出しているのではないかと思います。どんな動物がおったかはわかりません。牛乳やチーズを作るために牛を飼いよったかもしれませんし、卵を産む鶏たちもおったでしょうか。荷物を運ぶためのロバもおりそうな気がします。でも人間が住むところではありません。動物はおっても人間はそこにはおりません。おったのは、ヨセフとマリア、そして仮に産婆さんがお産に立ち会ったとしても、ずっとおるわけではありません。そもそも人が寝泊りするようには作っていません。人が生きる場所ではないですし、ましてや生まれる場所ではありません。誰も望んでそんなところで生まれてきたいとは思いませんし、マリアとヨセフも一番に望んでおったわけではないでしょう。けれど宿には、彼らの場所がなかったのです。

泊まる場所と新共同訳は訳しましたが、もとの言葉は場所だけです。彼らのための場所がなかった。マリアとヨセフのためだけでなく、お産の場所がなかったし、生まれたばかりの赤子であっても、家畜が草をはむ飼い葉桶を、ちょっと貸してよと取り上げるようにして寝かす以外に場所がなかった。場所がない。救い主を迎えるための場所がなかったとクリスマス物語は語ります。

誰であってもそうでしょう。自分のための居場所がなければ生きていくことができません。存在することができません。贅沢を言うわけではないのです。私のための居場所があれば、あれこれ条件は付けません。バス・トイレ付とか、液晶テレビがないといかんとか、それはなくても生きていけます。居場所があればいいのです。ただ一つ条件があるならば、ただそこが、私のための場所であること。それだけです。

救い主が来られるために、神様が人に望まれたのは、救い主の場所を用意すること。そしたら、その人に、救いがやってくるのです。救い主が救いの恵みを下さいます。家畜小屋のような場所であっても、生きていけんようなところであっても、救い主をお迎えしたら、そこに救いが生まれます。そのための場所があればよい。救い主を迎える場所があればよい。

あれこれの犠牲はいりません。これをせないかんとか、あれをやめんといかんとか、そういう犠牲はいりません。神様が人に望まれるのは、あれこれの犠牲ではないのです。確かに犠牲は必要です。でもその必要な犠牲のすべてを、神様が用意して下さいました。自らを犠牲にして、この地に来られ、神の独り子イエス・キリストが、ご自分を罪の償いの犠牲とされて、全部償って下さったのです。十字架に架かって人の罪を負い、その刑罰を終わらせてしまうため、そのために神様は人となり、飼い葉桶の中にお生まれになりました。全てはそのためでありました。私たちがクリスマスをお祝いするのも、教会のシンボルが十字架であるのも、すべてはキリストによる罪の償いにあるのです。そのための犠牲となるために、御子は家畜小屋の中で産声をあげ、飼い葉桶の中に寝かされました。もう始まっていたのです。私たちの汚れや罪の臭いをその身に染み込ませるようにして、十字架に上げられて死なれる歩みが、その聖なる誕生の場面においても、既に始まっておりました。全ては栄光の十字架に、そこで罪人の罪が全部支払われ赦される、あの十字架の死による救いへと向かう、十字架の道のりでありました。

イエス様はそこで、まるで人ではないかのように、人でなしのように死ぬために、まるで人ではないかのように、家畜小屋でお生まれになりました。もしかしたら、そういう宗教絵画が既にあるのかもしれませんけど、もし私がイエス様の生誕の光景を描くことがあれば、その飼い葉桶に眠るイエス様の頭上に家畜小屋の梁を描き、それを十字架の形に描きたいと思います。薄暗い家畜小屋に、救い主が眠る飼い葉桶を中心にヨセフとマリアが身を寄せ合って、その三人を照らすようにして後ろにロウソクが立っていて、そのロウソクの光に照らされて、イエス様の上に、十字架の梁が照らされている、そういうイメージの生誕の光景を、私は思い浮かべます。

人としてお生まれ下さった神様が、しかし、あたかも人ではないかのように、まるで生け贄とされるため生まれる家畜のように、薄暗い家畜小屋でお生まれなさる。しかし、そもそも人間が、人間らしく生きるとは、どういう生き方を言うのでしょうか。イエス様が飼い葉桶に寝かされたのは、秘められた神様の救いのご計画があるのですけど、その計画を覆うようにして実行されておったのは、時の権力者による人口調査、住民登録です。税金徴収の計算のため、あるいは徴兵のための武力計算のため。いつでも国民の義務という言い方で課されますけど、義務というのは、漢字で書くとおり、正しい務めを言うのです。人間が人間として正しく生きていくためには、この義務を果たさないといけないという名目で、色んな義務があげられます。税金を考えたらわかりますけど、確かに隣人を助けるために、特に困っている隣人を助けるために、お金を集めて事業をなす。そのための税金制度は有益です。助け合うという正しい務めは、まさしく人間らしい生き方です。でもその集めたお金で人を虐げ、最悪なのは戦争です。愛する国土をとか言いながら、愛する人を守るためなどという名目で、遠くの隣人を殺します。愛が自己中心になってしまうと、人が殺されていくのです。最近のニュースで無差別殺人を行った被告に死刑判決が下されたのを皆さんもお聴きかと思います。自己愛に執着し、人を人と思っていない、醜く捻じ曲がった被告の心に、胸が裂かれるような思いになりました。けれど他人事とも思えんのです。私は人を愛しているのか。人を愛して生きるという、人として正しい務めを果たしているか。38年前に人として生まれ、清潔な病院で助産婦さんの助けを借りて、人として産声を上げて以来、人として人間らしく生きてきたのか。一人一人の隣人を、一人の愛すべき人間として敬って、正しい関係に生きてきたか。誰であろうと、この問いに、息の詰まるような思いをせん人は、一人もおらんろうと思うのです。ましてや造り主なる神様を、神様として敬って、神様に対するような関係を、正しい神様との関係を、保ってきたかという問いに、答えられる人などおるのでしょうか。人とすら正しい関係に生きられないのに、どうして神様と正しくありうるか。

すべてをご存知の神様は、その悲惨な私たちの愛のなさを憐れんで、御子を与えて下さいました。正しく生きられないからと、見捨てる条件を見出されずに、その私たちがどうしたら救われうるかと、罪人を救う条件を捜し求めてくださいました。それが、御子が人として生まれるという、聖なる犠牲の条件でした。罪なき神の独り子が、全人類の罪を負うなら、その死をもって正しい償いとする。私たちを救われるために、私たちに条件を求めることをなさいません。私たちが神様に愛されるため、私たちの側に、愛される条件をつけられません。愛に条件はつかんのです。その名を愛と呼ばれる神様が、ただ一つご自分の愛につけられた条件は、御子を私たちの罪の身代りとするために、私たちに差し出されてしまうという条件でした。その条件を、神様はクリスマスの聖なる夜に、家畜小屋の中の粗末な飼い葉桶に満たされました。輝く赦しの光として、十字架を背負った救い主を、私たちのもとに生まれさせてくださったのです。

そこは、私たちの救い主のご生誕に相応しい場所でした。私たちの罪と闇とを引き受けて死なれる御子を受け入れるのに相応しい、何の装飾も、何の着飾りも、何の犠牲も、あれこれの条件も、救い主にしてあげられることなど、何一つなく、ただ救い主に救ってもらえるのに相応しい場所が、整えられているだけでした。神様が整えて下さったのです。ここが救い主を迎え入れるのに相応しいところだと、全ての条件は神様がもう全部満たしてくれているのだと、あなたはただその救いの恵みをそのまま受け入れれば良いのだと、御子イエス・キリストを下さったのです。

神様の愛を受けるのに、あれこれ条件はいりません。救い主を迎える心さえあればよい。粗末な家畜小屋のような心でも、神様の救いの光がともるのに、不十分な心などありません。そこには十字架が輝いています。キリストが闇を吸い取ってくださいます。あとは救い主イエス様の導きのまま、光に従っていけばよいのです。従いきれないそのところで光はなお行く道を照らし続けます。光はもう既に来たのだと、御子が笑ってくださいます。柔和に光り輝くイエス様の、恵みを信じればよいのです。