09/12/13朝礼拝説教@高知東教会ルカによる福音書1:5-25、マラキ書3:23-24「待つ喜びもある」

ルカによる福音書1:5-25、マラキ書3:23-24

「待つ喜びもある」

 

静かに人知れない深いところで、神様の御心は実現されていきます。まるで映画の冒頭で、出演者の名前がゆっくり映されつつ音楽が流れ、最初、海の水面を映し出していたカメラが、静かにゆっくりと海の深みに向かってもぐっていき、時おり、コポコポと静かな音を立てながら、ゆっくりゆっくり深く潜っていき、静かで透明な深い群青の海の底に、いつ着くのかも分からないまま、どこまで降りていくのかも知らぬまま静かに深く潜っていく。何か催眠療法のようでもありますけれど、時に私たちは、こうした深みという存在を忘れてしまうようにも思います。ザカリアのように十月十日ほどにはいかんでしょうが、時にはすべての雑音から遮断され、自分の言葉さえ挟まぬほどの静けさの深みに、口を閉じて沈潜する必要があるのではないかとも思います。確かにそこには癒しが待っているだろうと思うのです。

口が利けなくなっただけでなく、おそらく耳も聞こえなくなっていたザカリアは、どのようにしてこの沈黙の期間を過ごしたのかなと思います。妻のエリサベトも、五ヶ月の間は外出を控え、身を隠し、静かな生活を営んでおったことが伺えます。そのエリサベトのお腹に、ザカリアは耳を何度か当てたことだろうと思うのです。音は聞こえません。でも聞こえたのではないかと思います。目をつぶって耳を澄ますと、目には見えなくとも確かに存在し、見えない暗闇よりも確かな実感をもった、深い海の如く、静かで透明な実感の中で、コポコポといのちが始まっていく音が、耳には聞こえず、目には見えずとも、確かに始まりを告げているのだと、ザカリアは人の言葉が届かない静けさの深みで、悟っていったろうと思うのです。

私たちは、待てない時代に暮らしています。何でもすぐに与えられるスピード配達の時代です。事務用品の通信販売大手で、今日発注したら明日届きますというので、アスクルという会社がありますが、今の時代の一つの象徴のようにも思えます。今欲しい、今必要だ、すぐ欲しい。子供かとつっこみたくなりますが、時代の幼稚化というのでしょうか。今すぐに与えられず手に入らず実現しなかったら、それは存在しないに等しいと思われたり、怒りの対象にさえなってしまう。でもそうやって今すぐ欲しくて手に入ったものが、すぐ他のものと取り替えられてしまうというのも、何とも、はかない限りです。スピードに流された代償でしょうか。軽くて儚いものばかりです。

私たちは、そのような時代に流されず逆行して、何かじっと待っているものがあるでしょうか。あるいは、じっと待っているコト、出来事があるでしょうか。例えば、子供の成長というのもあるかもしれません。すぐには成長せんのです。私たちと全く同じです。でもすぐに忘れて、何で、わからん、と怒ってしまい、時代に流されている自分に気づかされ、反省させられることも多々あるかと思います。私もまた成長させられていくという、その過程を、神様と一緒に、じっと待つというのも、待降節に与えられている恵みの一つではないかと思います。静かに待っていたいのです。この待降節に私たちが改めて思い出し、新たな気持ちで求めたいのは、じっと待つことです。神様の前で、神様のときが満ちるのを、黙って待ちたいと思います。

あるいは老年を迎えたザカリア夫妻がそうだったように、待てないという問題よりは、もう待ってない。ずっと待ち続け待ちに待ったけど、これはもう無理なんだと、あきらめてしまって、もう待ってないということもあるかもしれません。無論、子供が毒を待っても親は与えませんけれど、信仰の手引きとして聖書を読むときに、ああ、これは求めても良いのだと思うことがあります。励ましを受ける御言葉があるのです。ザカリアたちもそうだったでしょう。信仰の父アブラハムと妻のサラは老年を迎えておったのに子供が与えられました。きっと何度も何度も、二人でアブラハム物語を語り合っては祈ったのではないかと思います。でも与えられない。けれど不平は言いません。6節で言われているように、二人とも神様の前に正しい人で、主の掟を守っておりました。主の掟といったら、あれをしなさい、これをしたらいかんというルールというよりも、イエス様が後で教えて下さったように、あなたの造り主である神様を愛しなさい、という掟に尽きます。主の掟とは家族の掟です。礼拝で唱和する十戒も、あれも神様の家族の掟だと言われます。父なる神様の愛に導かれ、主を愛し生きる。父と母を敬って、隣人を敬って、神様の家族の掟、愛に生きていく。ザカリアたちは、この愛の掟を守っていました。人生に不満がなかったとは思いません。不条理な世の中です。罪が横行するのです。人に優しくしても罪で返される世の中です。主の掟が与えられておったイスラエルですらそうなのです。だから二人から生まれてくる預言者ヨハネは、17節で言われるように、父から子へと思いが通じず、信仰の継承ができなくて、どんどん信仰のない時代になっていった不信仰なイスラエルに向かって、悔い改めなさいと説教するようになると天使は語ります。神様を主と呼び、神様からわたしの民と呼ばれる家族の関係にあるのだけれど、家族の掟が守られず、不平・不満に流されて、神様を愛しているとは言い難い時代に、ザカリア夫妻は神様を愛していた。だから神様の前に正しい人だったと言われます。そら人間ですから罪を犯します。夫婦喧嘩もしたでしょう。それでも、神様を愛するのです。神様ごめんなさいと言うことだけは、それだけは守ろうと。互いに罪は犯しても、神様の前にはいつも出ようと。その他に、どうやって生きていったら良いだろうと、そうやって時代の流れに逆行をして、神様を愛しておったザカリア夫妻。そんなザカリアではあったのですが、老年を迎え、さすがにこの年ではと、何歳ぐらいから思い始めたか。妻のエリサベトから告げられて、ああ、じゃあもう終わってしまったかと思ったら、まあ、私らはアブラハムとサラではないのだからと、言わば、割り切った信仰に落ち着いてしまったのかもしれません。強く期待はせんほうが、傷つくことも少ないという人間の知恵に、ザカリアも流されたのかも知れません。信じたいのに、信じきれない。心が痛む。それでも、できれば神様お願いしますと、自分でも見えない深い心の奥底で、信じられないのに願っている。

その心の願いを、神様は深いところで受け入れられて、夫妻の願いをご自分の願いとされました。願いは聴かれておったのです。でもザカリアが求めておった喜びや楽しみよりも、もっと深く、もっと広いところで、彼の願いは実現します。ザカリアが会ったこともない大勢の人々が一緒に喜び、私たちを永遠に包み込む、神様からのこの大きな喜びを、ありがとうございますと皆で分かち合うようになる、ザカリアと一緒に喜びを分かつようになると天使は言うのです。

ザカリアはおそらく面食らったのでしょう。信じられません、だって私も妻も年老いてと、信じられない理由、私はあきらめたという言い訳を何故か始めます。証拠がないと信じられないというのは、神様に会ったことの無い人の言葉かと思ったら、神様から遣わされた天使に会った人が言うのです。面白い言葉だと思います。人の心の不条理さを代表しているのかもしれません。神様に願っていながらも、その神様が接近してこられたら、何故か、信じられません、という反応になってしまう。

何故だか変にひねくれてしまう不条理な人間の言葉に対して、神様の言葉を伝える天使の言葉は、これまた面白いほど真っ直ぐです。証拠を見せてと、私は信じられないのだと訴える転倒し混乱した人間に、え、私が証拠です、私は神様から遣わされてきた天使です、私の言葉を聴いている人は、神様の言葉を聴いているのですと、天使はまっすぐに答えます。天使からしたら、だから恐れたのではないですかと思ったかもしれません。確かにザカリアは恐れていました。不安にもなった。神様が御心をなすため人間に近づいてこられたら、いつでも人間は恐れを抱き不安になってガードを固くしてしまいます。神様を愛していたザカリアですらそうなのです。待っていたのに願ってたのに、やっぱりだめだと思いだし、漠然と否定的な感情が、ますますガードを固くさせていき、そのことに後ろめたい気持ちもあったでしょうか。色々言い訳がでてきてしまう。神様が近づいて来て下さって、約束のお言葉を頂いていると知ってはいるのに、何故だか頑なになってしまう。

でもそのことで、喜びの知らせが、無効になるわけではないのです。神様が、あなたの待っていたことが起こりますよと言われたら、それは必ず起こるのです。やがて生まれてきたヨハネが成長し、大きくなったとき、自分の父親の不信仰によっても、自分が生まれてくることは妨げられなかったことを知って、ヨハネは神様に感謝したろうと思います。ザカリアは、これは今夜の礼拝で説き明かしますが、もっと早くに感謝をします。神様の言葉が語られたのに、これこそ確かだと言えなくて、神様の約束を人間の言い訳でガードしたザカリアも、その不信仰から、救われるのです。あたかも神様が、あなたは当てになるしるしを求めているけど、そのあなたの語る言葉自体が、当てになっていないではないのかと、そうおっしゃっているようにして、彼は口が利けんなります。不確かな言い訳でつまずくよりも黙って考える方がよいからです。彼は沈黙を通して恵まれました。御言葉の深みに静かにコポコポ潜っていく恵みが、ザカリアに神様から愛として与えられます。御使いを遣わして語られたのも、また語られた御言葉を喜べるように、黙する恵みを下さったのも、神様が、ザカリアを愛される証拠なのです。

信じきれない信仰の弱さを、神様は受け止めてくださいます。すべての暗闇を引き受けるために、御子を贈られた神様です。キリストを下さった神様です。ここに救いが開けていきます。人間の言葉では開けない救いの扉を、キリストが開いて下さったのです。御子イエス・キリストの前にひざまずき、その御言葉に沈黙し潜るとき、人知れぬ神様の深いところで、静かに御心がなされていることを喜ぶ恵みが与えられます。信じて待って良いのだと、主の御言葉に満ち足りるのです。