14/8/17朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙6章20節、イザヤ書40章1-11節 「自由をくれる愛の勇気」

14/8/17朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章20節、イザヤ書40章1-11節

「自由をくれる愛の勇気」

 

この手紙を書いていた時、キリストの使徒パウロは鎖に繋がれておりました。ので、ひょっと手紙を書きながらも、鎖がジャラジャラと音をたてておったかもしれません。先週も申しましたが、おそらく一軒家に住んではおりましたが4時間毎に交代するローマ兵と手錠に繋がれて、ずっと監禁されている。その状態でパウロは自らをこう呼びます。私は福音の使者、大使として鎖に繋がれているのですと。大使というのは、辞書を引きましたら、特命全権大使と正式には言うそうです。遣わされた外国において、母国の全権を委ねられて働くという特命を与えられている人。ですから、一々これはどうしましょう、あれはどうしたらえいですか?と尋ねずに、あなたになら、その判断を任せられると、全権を託されている。自由な裁量で即座に判断を下して、責任ある行動と発言ができる。そんな務めは、誰にでも託せるものではないでしょう。ですので、ここで使者と訳された言葉は、もともと歳を重ねて経験を積んだ長老のことを指す言葉なんだそうです。その経験から、よし、ここではこういう発言をすべきだ、ここではこうした発言や行動は控えるべきだと、わきまえているので、国の代表として全権を委ねて、遣わすことができるということでしょう。

その意味での大使というのは、なるほど誰にでもできる役割ではないと思います。あるいは俺にならできる!という人にはやらせんのが賢い選択かもしれません。なら、誰に託すか。しかも福音の大使、イエス・キリストの救いの福音を証する神の国の大使です!だから誰に託すかという選択権は全部、神様にあります。神様に選ばれ、キリストから、あなたがそうだと任じられたら、その人が大使です。歳を重ねていようがいまいが、経験を積んでいようが浅かろうが、あなたはわたしの証人となる、あなたは世の光、地の塩だと、イエス様から委託された人々が、キリストの福音の大使です。おわかりでしょう。信仰告白の言葉で言えば、それが選ばれるということでもあります。「神は恵みをもって私たちを選び…この変わらない恵みのうちで、聖霊は私たちを潔めて義の実を結ばせ、その働きを完成されます。」その働き、聖霊様による恵みの働きの最たるものが伝道です。いや伝道に結びつかん働きはないでしょう。キリストの体の一肢として、キリストの体の実を結ぶのですから、救いと関係ない働きはない。別の手紙、コリントの手紙一の9章23節でこう言う通りです。私は全てのことを福音のためにしています。新共同訳はどんなことでもしますと訳しましたが、同じことです。どんなことでもしますけど、いや~うちのかみさんはちょっと(笑)というのはなし。全てが福音の証のためになされる生活。そのためには、どういう態度で生きればよいか。どう具体的な生活を営めばよいか。時間の使い方、心の使い方、お金の使い方、私の人生の使い方、主よ、あなたの福音のためにお捧げします、聖めて御用のためにお使い下さいと、キリストから託された福音の特命全権大使として生きて行く。そこに御国は来ます。主の祈りを祈る具体的な生活が、そこで義の実を結ぶのです。

私のところにも来た、という証をします。励まされる証をするつもりです。私に福音を伝えてくれた人は、え?お前がクリスチャン?という感じの若者で、たぶん毎週の礼拝も捧げられてなかったと思いますが、私に神様の愛の話をし、聖書読もうと誘ってくれ、私が聖書もらって持っていると言ったら、それは神様の導きだと超嬉しそうに言うもんで、私も、そうかもしれん(笑)と。そこだけ聴くと新興宗教みたいと思われてもいけませんが、何を言いたいかと言うと、彼は自分が福音の大使であるという自覚を持って、神様にそのことを祈っておったということです。自分を福音の大使として捧げ切れておったかと問うならば、私も同じことを神様から問われるでしょう。幸生、あなたは自分を捧げ切っているのかと。大事なのは信仰告白で「この変わらない恵みの内で」と信じて告白するように、捧げ切れない弱い私を、神様が!恵みによって用いて下さり、義の実を結ばせて下さる!と、キリストの恵みに自らを託すことです。自分ができるできんに囚われるのではなくて、こんなにキリスト者らしくない私を、キリストが捕えて下さって恵みによって用いて下さるから、だから捧げますと、自分を、宝を、時間を、全てをキリストにお捧げすれば良いのです。それが献身です。その恵みの献身者に、キリストは福音を託して下さいます。その人にしか託せません。恵みに生きる人が、キリストの福音の大使です。その大使の一人が私のもとにも、ある日恵みによって遣わされて来た。その献身が、私の人生と、永遠を変えたのです。

キリストの恵みに捕えられた僕が、他の人をキリストの恵みのうちに捕えるために用いられます。ここで恵みの使徒パウロが、私は鎖に繋がれていますがと言うておりますのを、ある聖書学者はこう言いました。パウロが福音の大使として鎖に繋がれ、その鎖のもう一方にローマ兵が繋がれているのをイメージして欲しい。さて、どっちの人のほうが自由だろうか。パウロじゃないかと言うのです。ひょっとキリスト者は逆に思われてしまうことがあります。キリストを信じたら束縛されてしまうんじゃないか、不自由になるんじゃないかと。もし仕事でクリスチャンやりゆうなら、そうかもしれません。おおの、日曜や、出勤せな(笑)。ブルーサンデー(笑)。そう思われているんでしょうか。あれもできん、これも…、それ、本当にしたいんでしょうか。鎖に繋がれているんじゃないでしょうか。恵みの福音の大使はそこで、確かに鎖が重く大変で、まるでそれに支配されているように見える毎日の只中で、けれど恵みをわきまえているのです。先に、大使というのは歳を重ねて経験を積んだ長老を指して言うと申しましたが、若くても恵みをわきまえている者は恵みの長老、恵みの大使です。キリストが、こんな私を恵みによって、救いに捕えて下さった。赦され、受け入れられ、愛され、共に歩まれ、それ全部、私の努力次第じゃなくて、私の自己責任ではなくて、自分がダメやったらもう全部ダメじゃなくて、全部キリストの恵みながや!とキリストの名を讃える恵みの長老は、苦しみの中で尚、主よ!と御名を呼んで、キリストと共に歩んで行こうとする自由を与えられています。不甲斐ない毎日かもしれません。キリスト者として証ができてないと、家族を導くこともできないと思うかもしれない只中で、なおキリスト者としてキリストの名を呼んで祈ることをやめんのです。自分で選んでやっているんだったら、やめるでしょう。そうでないなら、選ばれているから、恵みによってキリストに結ばれて、どう?ついてくる?ついてこん?自分で選びや、とは言われずに、わたしについてきなさい!と恵みによって招かれているから、恵みの道を歩めるのです。歩んでいること自体、恵みでしょう。違うでしょうか。独り子を死に渡してまでも、あなたを救うと愛のご決断された神様の恵みの選びに捕えられ、イエス様よろしくお願いしますと、あきらめないで、祈り、歩んで、主の日には共に恵みの礼拝をお捧げする。その人は福音の大使です。

そして福音の大使は、大胆に証できるよう、語るべきことを、大胆に語れるように、祈ってもらう必要があります。改めてですが、だから、18節には全ての聖徒たち、全てのキリスト者たちのために祈りなさいと命じられていました。世界の地の果てに至るまで、福音の大胆な大使で満ちるためです。私たちが遣わされて行く、その所その所が、地の果てです。キリストは、そこであなたがたは、わたしの証人となると約束をしてくださいました。なる!それが恵みの福音の大使の条件です。

ならそこで大胆に福音を証して、語るべきことを語るって、どういうことか。大きな声でガンガン攻めの態度で人の気持ちを配慮しないで…というのは土佐人のガイな大胆さかもしれませんが、福音の大胆さではないので、もし私がそうやって語っておったら、憐れんで祈ってあげてください(笑)。もともとの言葉は、まるで自分の家で気兼ねなく自由に何でも語り合えるように、自由に語れるという意味です。無論、家でも家族や訪ねてきた人への愛の配慮は求められますから、罪を犯す自由ではない。むしろ愛がその場を支配するが故に自由に語れるということでしょう。言い換えれば、この人に救いを、キリストの愛を知って欲しいと愛故に思うときには、相手のことを考えながら、心と思いと知性を尽くして、配慮して、具体的な愛をもって語るでしょう。そして、それは説教で聴いた例話とかを語ることもあるかもしれませんが、それは自分の言葉になるのです。説教でも、これだ!と自分事として響いたことが心に残りますから、それを語る時には、内容は同じでも、自分の言葉になっています。あるいは自分の経験を証しながら、自分事になっていることを、けれど言葉としてはどう紡ごうかと考えつつ、とつとつと語るということもあると思います。もう先々週になりますが、岩住神学生が説教されたとき、最後にロマ書の「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう」という御言葉を、自分自身のこととして、自分がどうこの御言葉に向き合っているか重ねながら語られるのを聴いて、私はオッと思いました。神学生のプレッシャーにならんよう目を閉じて聴いておったのですが、目を開けてしまうほど、語りに心がこもるのを感じて、神学生の顔を見たら、原稿を見ないで目を閉じて一生懸命に語っておりました。神学生で初めて実習に来て、目を閉じて説教するというのは、ものすごく勇気がいると思います。つっかえたらどうしようとか、途中でわからんなったらどうしようとか、彼もきっと考えておったに違いないのに、目を閉じて、自由に、彼が自分事としてわきまえている、主に遣わされる恵みを、大胆に語っておったのを見て、心が共鳴しました。つっかえつっかえで、たどたどしい言葉でしたが、そこには本物の言葉があったと思います。自分を救い、今も自分を造り変えて下さっているキリストの恵みに言葉を委ね、自分を委ね、つっかえつっかえで、たどたどしくてよい、大胆に、私の救い主の恵みを語りたい!皆にキリストの恵みを伝えたい!その愛が福音を届けるのです。後は神様が御業をなさると、恵みを信じて、主の愛を信じて、その愛の大使になるのです。