13/1/27礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙4章1-4節、イザヤ書59章15b-21節 「多くても一つなる教会」

13/1/27礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙4章1-4節、イザヤ書59章15b-21節

「多くても一つなる教会」

 

皆さんは、自分はキリスト者であると誰かに伝え、え、カトリック?プロテスタント?って尋ねられたことはないでしょうか。ま、きちんとそうやって尋ねてくれる方は、キリスト教会について割と知っているほうでして、私の経験では、プロテスタントという言葉はあまり馴染みがないようです。プロレタリアートの親戚みたいに思われているかもしれません。またプロテスタントいうても色々あります。以前、私は神様からホームレス伝道に召されているのではないかと祈った時期があって、大阪の西成区にある教会をいくつか訪ねたことがあります。その中に、救世軍というプロテスタント教会の流れの一つがありまして、海外ではとても有名です。で、あの~、牧師と話したいんですがと尋ねますと、ちょっとお待ち下さい、とその女性が奥の部屋に向かって、小隊長!と大声で呼ばれました。軍ですから、牧師とは呼ばずに、小隊長と呼ぶ。びっくりしました。教会も色々あるのです。

色々あるんですけど、体は一つ!と聖書は断言します。キリストの体と聖書が語る、教会の姿です。体は一つ、教会は一つだと、強い言葉で語ります。これは本当に強い言葉で語らんといかんのです。体の部分は多くても、また互いに色々違っていても、一つの体であるように、教会も一つ。体は一つ。教会は一つ。それがキリストの体、教会です。

その一つである根拠、一致の根拠は、先週説き明かしましたように、キリストを主と信じて洗礼を受ける者が皆一つの霊、聖霊様によって、キリストに結ばれるからです。皆、霊は一つと、これも強く言われます聖霊様によって、キリストに結ばれ、霊による一致、聖霊様による一致を既に与えられている。だからこれを保てと言われます。保つ他ない。ないんですけど、他のこだわりに熱心になって、それで争ったりしますから、だから、努めなさい、熱心に保ちなさいとも言われるのです。

それは単にカトリックとプロテスタント、あるいはその宗教改革から500年遡ってカトリックと分裂した、いわゆるギリシャ正教会の流れ、そういう大きな教会の流れや派閥の違いだけを考えて、でも教会は一つやきねえと、そういうのだけではありません。もっと具体的で、自分のこだわりがそこで問われてしまうほどに、具体的で生々しい一致を保つ熱心さが、主から求められている、そういう「努めなさい」です。

確かに、大きな違いの方がわかりやすいかもしれません。祈るとき、マリアの名を呼ぶかどうか。これは大きな違いです。でも、熱心に呼ぶこだわりも、また違う!とこだわるのも、そこ中心に熱心になってしまうのは、それこそ違うと主は言われる。聖霊様による一致を熱心に保つのです。詳しくは来週以降5節の説き明かしになりますが、先に少しだけ言うと、要するに、主は誰か。ここにつきます。色々な教会がある。その教会が、本当に一つのキリストの体の一部かどうかは、ここでわかる。その教会が、どんなキリストを主としているか。そのキリストが、聖書の告知するキリストかどうか。ここです。復活のキリストか。復活信仰としてのキリスト信仰か。ここです。そのキリストを主と告白するように導かれるのが聖霊様であり、その復活のキリストを信じる人を、聖霊様はキリストの体に結ばれるからです。

そして、ここが急所ですけど、そうやってキリストの体に私たちを結ばれる聖霊様は一つ、いや御一人です!カトリックの霊があって、プロテスタントの霊があってって、そんな考えがどんなにおかしいか。すぐわかる。なら、どんなに他の点で違っていても、一つの霊に結ばれて、一つの体、キリストの体に結ばれて、主が、あなたがたは一つだと言われる、その熱情に相応しくアーメンと信仰告白できるか。できんほど、何かにこだわってしまうなら、そのこだわりを生み出すスピリットが、どんなにおかしいかもわかるのです。違うスピリット、霊を造ってはいけません。人によって造られていないスピリットなら尚悪い。その霊はキリストから人を引き離す悪の霊です。その霊に従ってはいけません。かえってそんな私たちをキリストに結んで下さった聖霊様を感謝しましょう。人が洗礼を受ける時、その聖霊様の名によっても受けるのです。その霊による一致を得ているのです。だからその一致を保つのです。

その一致、一つであることは、また私たちがそこに向かって召されている希望の一致と同じだとも言われます。これもまた、復活の希望だと言って良いのです。復活のキリストに結ばれているから、私たちは復活させられるのです。それは、どの教会に属する兄弟姉妹も同じです。今どんな違いがあって、そこに注がれるおかしな情熱やこだわりがあり、そのこだわりにこそ皆一致するべきだと、この一致へと皆が一致すればいいのにという希望を持っていたとしても、私たちは、その自分の望みを、主のために、どうでもよいものとすることが許されています。またそうすることができるのです。復活から考えればよいのです。復活の御国の生活を考えればよいのです。そこでは自分の希望など、何の意味を持つのでしょうか。それは、ほら、私が正しかったと、優越感を抱けるようなものではないでしょう。地上ではそうでも、復活の御国で、そうなのでしょうか。そこで王座におられる復活の主が、聖霊様の一致を保つことに、ここまで情熱をお持ちであるならば、その主のこだわりを、押しのけてのこだわりに対して、主の復活の御国でそのおかしなこだわりが褒められることに、一体どんな希望を抱くことが出来るでしょう。だから一切高ぶることなく、謙遜に、なのです。そこで謙遜に主の希望を自らの希望として知るときに、復活の御国の生活が希望となるとき、希望がまことに希望らしく、私たちを喜びに導く希望になるとも言えるのです。いいですよ、復活の希望を希望とする喜び。この一つの希望に生きるこだわり。この希望に、私たちは招かれているのです。

またこうしたこだわりは、大きな教派的こだわりだけでなく、うんと小さくすれば、教会員同士のこだわりの違いや、信徒と牧師のこだわりの違いに対しても同じことが言えます。そこから人間関係がギクシャクしたりする。よくわかる話だと思います。そこでも同じことが問われます。私は何に熱心になっているか。熱心に御霊の一致を保つことに熱心になっているか。復活の主の名を呼んでいるか。父・子・聖霊の名によってのみ私たちが洗礼を受けたその御名以外には、私は復活の立ち位置を得ていないと、その立ち位置に熱心か。そう問うても良いでしょう。この4章の御言葉は、本当に具体的だと、つくづく心を上にあげさせられます。復活の主の近さを覚えさせられます。その御体に私たちは結ばれて、その御体におるのです。

教会はキリストの体であるという信仰理解、またそれを助ける信仰的イメージは、本当に大切であると思います。そして、その体のイメージを教会に当てはめるとき、それは例えば高知東教会や高知中央教会という一つ一つの個教会、個人というような個教会にも当てはまりますが、このエフェソ書が教え描くイメージは、全世界や全歴史を貫く壮大な体のイメージです。両方だと言ってもよいでしょうし、無論、大きな体の一部として、高知東教会があると言ってもよい。更には、その大きな体の一部を担う高知東教会という体の部分の、更に小さな部分部分として私たち一人一人が、キリストに結ばれている。それが、今のこの私たちの歩みです。キリストの体に招かれ、召され、召命を受けた私たち一人一人の、召命に相応しい歩みが、今この目の前に実現しているのです。教会が礼拝を捧げているというのは、そういうことです。ここで一緒に主の名を呼んで、主の名によって祝福しあって愛し合い、ここで教会を建て上げるとは、そういうことです。皆さんが、キリストの体の、この部分に具体的に召されたのは、ここで具体的にキリストの体を建て上げる召命を、主から頂いて、召されたからです。この具体的な個人の召命が、しかし壮大なキリストの体への召命である。この両方のイメージが私たちの召命理解を、召命に相応しい方向に導き、相応しくない方向から守る。別にどこそこの教会員にならなくっても、私は大きな体の一部にいるからと、具体的な教会員としての歩みを見失ったりしなくなる。また、それと丸っきり反対に、自分の教会籍がある教会を、もう教会はこの教会じゃないとだめ!と、偏ってこだわりもせんなるのです。

そのこだわりが結びついている教会のイメージが大き過ぎようと小さ過ぎようと、目のフォーカス、焦点があってないと教会は見えません。その焦点の当てどころが、キリストの召命です。キリストの召命が全てに先立ちます。例えば私は、この教会に召されたから、ここにいます。それだけです。他に理由はありません。実を言うと、まだ米国にいた24-5歳の頃、南国市にある実家の土地で開拓伝道をしようかと、そして教会の名前を南国パラダイス教会にしようかと友人たちと話し合ったことがあります。その自分のヴィジョンに、特に名前にこだわらんで良かったと(笑)、つくづく思います。神様に召されたのですから、その主の召命に相応しく歩む。そしたら自分のこだわりを捨てる謙遜が求められるのは当然です。柔和が要ります。忍耐が要ります。それが相応しい歩みのスタイルです。自分の肩で風切って歩んだりせん。皆、高知からおらんなるけど私は絶対高知に骨をうずめるっていう、あるいは風切って歩むようなこだわりも、教会員は安心するでしょうけど、そこでも謙遜こそが相応しい歩みです。主の召しが全ての局面に先立つからです。

それは個人レベルだけでなく個教会レベルでも同じです。主の教会への召命に応える他ない。私たちは何々教会ですってこだわりより、あるいはそれは土地への愛着や長くやってきた伝統への愛着、誰それ牧師がっていう愛着から来るこだわりかもしれませんが、そうした個教会としてのこだわりに対しても、私たちはキリストの体の一部として招かれたという召命が先立つ。私たち、こんなにこだわって頑張ってきたのにって、そこでこそ具体的に問われる謙遜が、召命への相応しさなのです。

復活の御国に日本基督教団はありません。キリストが全てです。私たちの熱心なこだわりが、その日、主の栄冠となるかどうか。それだけです。なら栄冠を捧げたい。捧げられる。そこに召されている。それが希望です。だからこそ歩める。ここで、一緒に、主の召命に歩めるのです。