13/1/20礼拝説教@高知東教会
エフェソの信徒への手紙4章1-4節、イザヤ書8章9-10節
「造れず壊せぬ保つ一致」
私たちの教会は15年前の1月25日、日本基督教団高知東教会として設立されました。今日はその設立記念礼拝を主に捧げています。難しいことを言えば、日本基督教団の場合、だいたいは先ず伝道所として設立されて、それが言わば何とか独り立ちできるようになると、第二種教会としての設立を迎えます。それが15年前。そして教会員が増え、財政的にも奉仕の力でも他の教会を支えることのできる成長を与えられると、第一種教会として教団に申請をします。ただこれらは聖書に教えられている種別ではなく、ま、組織上、便宜上のことです。
こういう話は、聞いていてあまり面白くない、別にどうでもよい話に聞こえるかもしれません。実際、その人の救いを左右するような知識ではありません。じゃあどうして教会の設立記念を祝うのか。教団から、この日に開拓伝道援助献金をして下さいと頼まれたからか。違います。私たちが、どうして教会設立を記念して礼拝を捧げるかというと、今日の御言葉に語られる、私たちが主から招かれた招きというのは、どんな招きであるのかを、ここで具体的に覚え一緒に記念するからです。全ての人は教会へと招かれ、ある者は南国教会へ、ある者は高知中央教会、そしてある者は高知東教会へ招かれて、キリストの体を建て上げる教会の一員として、欠くべからざる教会員として、そこでキリストの働きを継承するよう招かれています。その招きを覚え記念するのが教会設立の記念です。
体というのは既に1章2章と繰返し語られてきたキリストの体、教会です。体の部分のどれもが体の一部であるように、教会に招かれた一人一人が掛け替えのない一部として、体全体のために働き、重要な働きを担うよう、皆、イエス様から招かれている。
その招きの記念を、個人のレベルで祝うのが、受洗の記念だとも言えます。私がキリストに結ばれて、同時にキリストの体である教会に当然結ばれて、キリストの体の一部となったことの徴として洗礼を受ける。その喜びを祝うのが毎年の受洗記念ですが、その私が、じゃあどこで、どのようにして具体的に、主の体の一部としての召命に相応しく歩めるようになるか。それを一気に情熱的に、しかも詳細に教えているのが、この4章に描かれたキリストの体のヴィジョンなのです。
その召命を、個人的にでなく体全体でも覚えるのです。あなたもここで、共に体を建て上げる召命に相応しく歩みなさいと、主から招かれた者全員で、そうだ、私たちはここに招かれ、ここで一緒に歩むのだ、そのために、ここに教会が建てられたのだと、この教会に召命を受けた体全体で記念する。それが今日、私たちが覚える記念です。
しかもそれを、召命に相応しく覚えるのですから、そこで記念するのは、キリストの召命です。主がここに教会を設立され、ここにキリストの救いの働きがなされるように、私たちを召された。主が、です。その主の召命に相応しく具体的に教会員として歩むとき、ここが急所だというのがあります。それが3節の「霊による一致を保つよう努めなさい」という御言葉です。これが教会を左右します。
保つということは、与えられているということです。霊による一致は主から与えられた教会の一致として保つほかない。先週、私たちは全員イエス様から、わたしのくびきを負いなさい、私と一つに結ばれなさいと招かれたというイメージを語りましたが、このイメージが大事です。母とへその緒で結ばれているように、あるいはおんぶ紐で結ばれているように、または畑を耕す二頭の牛がくびきで一つに結ばれるように、主と私たちは一つに結ばれ、その結びのへその緒から神の子としての命の養分を頂き、試練の時にもイエス様の背中から振り落とされず、福音の種を蒔き耕し実りをもたらすように召された主の伝道の畑で、イエス様と一つに結ばれて歩んでいる、その歩み。その歩みはしかし、決して、私とイエス様だけの歩みではなくて、イエス様を信じて洗礼を受けて、人と神様を結ばれる三位一体の聖霊様を受けてイエス・キリストに結ばれた全ての人が、一つに結ばれている壮大なイメージです。聖書は色んなイメージを用いるのであって、おんぶ紐のイメージだけだと、うわ、イエス様何人背負うちゅうが!ってなる。それだけの死を十字架で死なれたという大きな背中のイメージでもありますけれど、対応しきれないので聖書は別のイメージを用います。キリストに結ばれた全員が、教会を建て上げるよう主に召され、主に結ばれているという召命を語るときには、体のイメージを語るのです。これも是非ご自分のイメージにして頂きたいと願います。主の体の一部として結ばれた私のイメージ。
私たちの体も色んな部分からなっていますけど、一つに結ばれています。それを聖書は、体は一つと言いますが、それは教会の一致を語るのです。教会の一致の理由は、ただ一つです。キリストに結ばれている!それだけです。その結びの帯、へその緒、くびきが、三位一体の聖霊様です。キリストを私の救い主と信じる全ての人に主から与えられる永遠の命の絆、聖霊様によって、人はキリストに事実結ばれ、そして皆そうやってキリストに一つに結ばれている故に、その結ばれている一人一人も、聖霊様によって一つである。教会はそうやって聖霊様による一致、霊による一致を与えられている!これは人間が造った一致ではないのです。そして壊すこともできない。聖霊様を、三位一体の主なる霊を、人が自分の都合や努力で、どうにかできるとでも言うのでしょうか。あの人と一致するらあて嫌と思うとき、私たちとキリストを一つに結ばれ、それ故、私たちを相互にキリストの体として一つに結ばれている聖霊様は、そんなふうに言わんとって、キリストが命を賭けて結ばれた人を、どうかそんな風に言わんとって欲しいと悲しまれます。左頁4章30節で語られている聖霊様の切なる心情でもある。「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。」わたしが保証だ!あなたたちは一つだ!と御霊は言われる。
その一致を、聖霊様によって与えられているキリストに結ばれているという教会の一致を、だから努めて保ちなさい、熱心に保って欲しいと語られるのです。
熱心にと訳した方がわかりよいでしょう。努めて最善を尽くしますとか、お題目で言うような努めるではなくて、そんな無理してやるのではなくって、言わば自然に、心がガーって傾いている方向に情熱が注がれている、そういう熱心さ、こだわりを言うのです。皆さん、それぞれに何かに熱心でこだわりがあるのだと思いますけど、その情熱を、ここに注いで下さい。ここに心が傾くように、聖霊様助けて下さい、あなたを悲しませたくないのですと祈って下さい。これを皆さんのパッション、熱情として下さい。それが聖霊様のパッションであり、キリストの喜びであるからです。私たちが神の家族として一つとなるために、御子は命を捨てられたからです。ここが三位一体の神様の熱情だからです。
神様のこだわりを我がこだわりとし、主の情熱を私たちの情熱とする教会は、必ず成長します。私たちを一つに結んでいるへその緒を、自分のこだわりで詰まらせないで、本来の健やかさに保っているからです。そこにキリストの背中とか、手が見えてくる、キリストの体らしくなるところで教会は本来の成長を与えられます。この教会成長の第一原則、聖霊様による一致を熱心に保って下さい。そしたら来年の教会設立記念礼拝は、もっと喜びに満ちると思います。
三位一体の神様のこだわっちゅうところに、私たちもこだわることができますように。そして他のところに持っちゅうこだわりは、どうでもかまんなりますように、切に祈ります。神様のこだわっちゅうところに比べたら、どうじゃちかまんそのこだわりで、教会が病むことが多いからです。そんな熱心は、捨てさせて下さいと祈るのです。健やかな熱心を、聖霊様による一致を保つ熱心をお与え下さいと祈る。
先日、高知分区の牧師会で私が担当になって発題をしましたときも、このこだわりについて分かち合いました。するとある牧師が、私は自分のこだわり、熱心になるところを、じゃあどうして私はここに熱心なのかと自己分析、自己批判をすると、なんか冷めてしまって、熱心に仕えることが出来んなると言われました。種明かし後の手品のようにしらけるということでしょうか。先の大戦後、多くの日本人が陥った虚無にも似ているでしょうか。自分が踊らされていたショックに落ち込むということでもあるのでしょうか。私はその問いに自らの経験を話しました。イエス様を信じた当初、今ではどうでもかまんところに、私は熱情的にこだわっていました。信仰という名により、そんなこと聖書のどこに書いてあると、自分とは違う意見を感情的に拒否し、自分のこだわりこそ正しいと兄弟姉妹とぶつかることもありました。でもそれで兄弟姉妹が傷つくことに痛みも覚えました。次第に痛みが勝つようになりました。でも妥協できない。でも愛したい。主が喜ばれる真理に生きたいし、主が悲しまれることはしたくない。主は悲しんでおられる。私の何が主を悲しませているのか。自分を探りました。どんなに間違ったこだわりに私がしがみついており、どうでもよいことに感情が固く結び付いて、主のこだわりを無視していたか。こだわりだらけの律法主義者たちと頭を並べて主を嘲笑い、自分の正しさが勝つことを求めていたか。その私を招いて主が言われたのです。わたしについてきなさい。わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。そんなこだわりは降ろしたらよい、もう十分だろう、あなたの歩みはここにあると、キリストと結ばれる以外には歩み得ない教会の歩みに、あなたは相応しく歩みなさいと招かれた。この4章に啓示されたキリストの体の栄光の姿、教会を建て上げる召命に、皆、招かれているのです。十字架を負われた主の熱心な謙遜、罪人をご自分に結ばれる熱心な柔和によって、召されて主に結ばれた私たち全員が、この一致を熱心に保ちなさいと主から招かれているのです。
この熱心さが、私たちのあるいは病んでいる熱情を癒し、こだわりを正しく方向づけて、また捨てさせてもくれます。キリストが命を捨てるほどこだわられた、この教会の一致を、私たちも熱心に保つのです。