12/7/22朝礼拝説教@高知東教会 エフェソの信徒への手紙2章7-8節、イザヤ書55章1-13節 「恵み、恵み、恵みだ!」

12/7/22朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙2章7-8節、イザヤ書55章1-13節

「恵み、恵み、恵みだ!」

 

また妙な説教題をつけたと思われたでしょうか。思惑としましては、女子レスリング浜口選手の、ま、お父さんのほうですか、気合、気合、気合だ!というのを思い出してくださったら、うんと対照的で、わかりやすいかなと思ったのです。気合、気合、気合だ!じゃなくて、恵み、恵み、恵みだ!これが神様の、そして教会の掛け声です。

今読みました御言葉は、すぐ前の5節の御言葉「罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし、-あなたがたの救われたのは恵みによるのです-」の具体的説明です。

あなたが救われたのは恵みによる!恵みなんだ!恵みをわかってほしいんだと、主がご自分の羊たちにねんごろに語りかけておられるとも言えるでしょう。だって、これがわからんと深刻なのです。人として生きるのも、また信仰者として生きるというのであれば、なおさら生き辛くなってしまう。前に半分冗談で言ったことがありますが、漢字で気合と書いて、その横にルビで、シンコウと振っているような信仰理解が教会には昔から多いのです。これもすぐ前の3節で言われる肉という言葉、あるいは原理。俺俺俺、私私私、自分が自分でという肉の原理で、信仰を誤解してしまうということは、昔から一つも変わらない肉の欲望であるのでしょう。シンコウによってと言いながら、恵みの神様からご覧になられたら、ありゃ、けんど、あなたの額には気合という文字が浮かび上がっちゅうがとおっしゃるのではないでしょうか。でも、ついそうなってしまいやすい。肉の思い、肉の気合が、マグマのように噴出しては恵みの態度を吹き飛ばす誘惑が、人なら誰しもあるのです。

ならばこそ、ここで再度強調をせないかんと、しかも信仰との関係をはっきりさせて、恵みを強調せないかん、恵みに心の目が開けて欲しいと、祈りつつパウロは語るのでしょう。うんと牧会的だと思います。

私たちが救われたのは恵みによる。神様がそう決めてくださった。私がそう救われるのを決めたのではなくて、神様がそう決められて、そのように救ってくださった。それは何のためかと言いますと、7節3行目「その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。」これが理由です。直訳は来るべき世々ですから、イエス様が救い主として神の右に着座され、そのキリストの体として教会が伝道を始めてからこの方、ずっと、そして更には、全く新しくやってくる世、あの世と言うよりは、この世界が最終的に裁かれて、全く新しい世界を神様がお造りになられる、その世に至るまで…一体何をするためか。すべての者が、恵み、恵み、恵みだ!と神様をほめたたえるため、恵みの神様を物語るためです。証すると言ってもよいでしょう。現そうとされたという言葉は、証明するためという言葉です。即ち世々に渡って、神様はまっこと恵み深い神様や、すごい!と、恵みの神様がわかるように、キリストによって証明されたというのです。だからキリストを信じて、その信じたという信仰に心奪われて、自分の信仰にこだわっているのなら、主は、いや、そこじゃない、あなたのこだわるべきは恵みだと言われる。

キリストによって恵みを証明し、人々が恵みに説得されること。それが神様が私たちを救われた、救いの目的であるのなら、教会がなすべき証明、証も、恵みの証明でなければなりません。私はこんなに信じています、何であなたはそうじゃないのと、そういうのは全く証しにならんばかりか、神様の目的を邪魔する肉の証明であるのです。だからもし、もし、そういう信仰への間違ったこだわりを、どこかで拝見することがあったら、そこでこそ自分も同じ肉を持っていることを知り、その肉を怒られる神様に健全な畏れを抱くべきです。そしてここで使徒パウロが祈ったように、その人のために祈るべきです。栄光の父が、知恵と啓示の聖霊様を注がれて、心の目が恵みに開かれ、恵みの神様を深く知ることができるようにと真剣に祈り続ける。その態度こそが恵みの証明にもなるのです。救われたのなら、ますます恵みの態度に生きられるよう、キリストと共なる命、生き方、態度へと、ますます肉から救われる恵み、恵み、恵みだ!神様は恵みによって救ってくださる!と、恵みを証明して生きるのです。恵みの態度で生きていく。それが教会の証です。

しかもこの恵みの証は「限りなく豊かな恵み」の証です。これも直訳は「この恵みの遥かに超えて行く豊かさ」です。上の19節で「信仰者に対して絶大な働きをなさる神様の力」とありました、あの絶大なという言葉と同じです。私たちの理解をどんどん越えて行くのが、それが恵みだと言うのです。アメイジング・グレイス、驚きの恵みという讃美歌がありますが、恵みに驚かんなったら、救いが見えんなってきている証拠だとも言えます。そこにはまた肉の力が働いておって、目を見えんようにしているのです。恵みに対して、そして自分に対して。自分の罪が見えんように、あるいはどんどん小さく見えて、そしたら赦しが小さく見えて、そしたら十字架が小さく見える。むしろ、そのイエス様を信じた私が大きくなって、私の信仰が強くなったら、信仰が恵みを越えゆくのでしょうか。決してそうではない。恵みが遥かに超え行くのです。その恵みの豊かさを証するのです。自分の信仰とか自分の決断とか、献身、祈り、犠牲でさえも、肉による世界では立派であっても、神様の恵みを証する、恵みの態度でなされんかったら、自分の証でしかありません。それでは教会は壊されます。

教会を建てるのは恵みです。どんどん越え行く恵みによって、教会もどんどん建てられます。人数の大きさではありません。恵みの越え行く大きさなのです。恵みの態度が大きくなれば、数も越え行くろうと思います。自分がどんどん小さくなって、キリストがどんどん大きくなって十字架がどんどん大きくなるのが、恵みの態度だとも言えるでしょう。恵みは常に、越え行く力を持っています。成長するのが恵みです。成長するのが教会です。罪の理解も、赦しの理解も、それゆえ悔い改めにも成長する。恵みの態度に成長する。その教会が証においても、どうして成長せんでしょう。教会は恵みによって建つのです。

その恵みの態度は、前の頁をペラッとめくったガラテヤ書5章22節に具体的に記されています。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制…など、その前に記される肉の態度と対照的です。が、この恵みの態度もまた恵みですから、受けるもの、賜物です。私はこんなに愛があるのに、どうしてあなたは?というのは自分の証をしているのであって、恵みを証し損ねて、もったいないです。ただし、肉の働きで、わかっちゅうのにそうなってしまう、私私の誘惑が常にありますから、だから、恵みの証をするときに必要なのは、今日の7節に戻りますけど「神様が、キリスト・イエスにおいて私たちにお示しになった慈しみによって」証されている恵みに、立ち帰ることです。キリストの慈しみに何度も何度でも立ち帰る。これです。他にあるでしょうか。「慈しみ」と訳された言葉は、優しさとか、恵み深さとも訳される言葉で、イエス様が「わたしのくびきは負いやすく」と言われた、負いやすいと同じ言葉です。くびきとは、二頭の牛の首に木を渡して、カチッとはめて、畑を耕すときに力が出るよう、共に働かせるための道具です。イエス様は、要するに、わたしと共に生きようと言っておられる。あなたの自分の力ではなく、わたしが勝手に救うのでもない。共にだと。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば安らぎを得られると、救いに招いて下さった。恵みの態度をそうやって学べと、自分自分だと疲れるだろう、重荷で仕方なくはないかと、キリストと共に恵みに生きる救いのいのちを、共に生きようと言ってくださり、いのちを差し出してくださった。その共に生きる主のくびきは負いやすく、慈しみ深い。直訳すると、ピッタリ馴染む、しっくりくるという言葉です。イエス様と共に恵みの態度に生きるとき、生きるのがしっくりくるようになる。自動的にではありません。恵みというのは、確かに一方的に自由に与えられるものではあっても、キリストによって与えられたこの恵みのいのちは、キリストと共なるいのちという恵みだからです。だから「恵みによって、信仰を通して」救われるのです。

信仰を通してが直訳です。恵みと同等ではありません。救いは恵みによるのです。そもそも5節に付け加えたのです。あなたがたの救われたのは、恵みによる!が、信仰を通してであるのだと、信仰の誤解を解消している。通してというのは、言わばパイプを通って恵みが具体的に、例えば態度となって現れてもくる。無論、楽に生きるのに実用的な賜物が、というのではなく、聖霊様がその中を通られて、キリストと共なる命を注がれて、信仰告白の言葉で言えば、キリストの義の実を結ばせてくださる。それが恵みの態度です。このパイプが、くびきだと言っても良いでしょう。人は人と共に生きて初めて人間となるとよく言います。間が大事だと。神様は、私たちがまことの人間として救われるように、神様と共に生きるまことの人間として御子を生まれさせ、そのイエス様と共に生きることで、私私の肉の人がキリストと共なる命に結ばれて、くびきによってつながれて、そこに復活のいのちが注がれて、それ故、恵みの態度が賜物として注がれて、そのくびきを負うこと、キリストと共なる命に生きることに、はい、と言えるようになる。その賜物としての信仰を通して、キリストと結ばれている状態あるいは関係がキリストを信じる信頼関係。信仰はその間のパイプなのです。5節の「キリストと共に生かし」は、直訳すると「キリストと共なる命を創造し」であり、言わばキリストと心臓をバイパスしているのだという譬えを先週申しましたが、このバイパスのパイプが信仰であり、そのバイパスで心と心がつながっていて、わたしのくびきを負いなさいと招かれるイエス様に、はい、と心でつながる信頼の絆を、信仰、あるいは信頼と呼ぶのです。

このキリストへの信頼関係を通して、人は恵みによって救われます。そこでなお私私私の信仰となってしまう誘惑に負けても、そんな私たちを背負われた十字架の大きさこそが、遥かに超えていくのです。恵みによって救われた!この理解、そして讃美も感謝も献身も、どんどん超えていくのです。人は皆、恵み、恵み、恵みで真実の人間になるのです。