ガラテヤの信徒への手紙2章19-20節、イザヤ書11章1-10節「自分ファーストの終焉」

17/12/3待降節第一主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙2章19-20節、イザヤ書11章1-10節

「自分ファーストの終焉」

神様に対して生きるために、律法に対しては死んだ。しかも、律法によって死んだのだ。それがキリストと結ばれて生きる救いであることを先週の説教では、律法とは娘を花婿に与える父親のようなものだという視点から説き明かしました。父親は、娘が花婿に対して生きるために、それまで養育するのであって、娘が自分に対して生きるためではない。自分に対しては、もう娘は死んだのだと、えいかや、俺に対してはもう死んだがぞと、潔くキリストとの新しい生活を祝福するのが律法です。でないとキリストと結ばれてキリストのものとなったのに、いつまでも未練がましく律法に固執して、律法が律法がと律法ばかり意識しておるなら、そら言わば夫に対して、お父さんはこう言いよった、お父さんはこうやったと言うようなものです。きっと夫はこう言うでしょう。頼むき、もうお父さんに対しては死んでくれ。俺に対して生きてくれ。それと同じで、養育係としての律法は、私たちに対して、その通り、神様に対して生きるのだから、私に対しては死になさいと言う。あなたは私のものではなくて、キリストと結ばれたキリストのものなんだから、律法律法言うて、私はこの律法を守りゆうき、この律法が私の正しさながやき言うて、律法主義になるな。なるならキリスト主義になれ。キリストに対して生きる者になりなさい。それが神様に対して生きるあなただと律法それ自体が、律法主義を禁じるのです。

ま、これは譬えですので、実際には、そんな私たちが律法律法と言うこともないし、律法それ自体から語りかけられるのでもない。が、神様は私たちに対して語りかけて下さっている。その神様に対して私たちは生きるのであって、律法に対してではない、ということは、意識的に整理してないといけません。言い換えると、律法それ自体は生きていないので、律法そのものに対して私たちは何も責任を持ってはいませんが、神様は生きておられます。その生きておられる神様に対して、私たちが生きているのか、それとも神様に対しては生きてないのか、無視しているのか、まるで死んだ人のように、神様に返事もしない、神様に対しては死んだ人のような存在となって、なのに神様以外の何かに対しては、例えば律法の皮をかぶった自分の欲望に対しては生きているのか。もしそうであれば、私たちは神様に、申し開きをしなければならない。今でないなら死んだ後に、何でそんなことをしたか説明せないかんのです。説明責任というのは政治家や新聞の向こう側の人に求められることだけではなく、神様の前に全ての人が求められており、実際に行わなければならないことだと聖書は教えます。何でこれをしたか、またしなかったのか、申し開きをしなければならない。聖なる神様に対してです。

神様に対して生きる、また律法に対して死ぬということは、つまり、私たちは誰に対して生きる責任を負っているか、ということです。誰に対して生きる責任を負っているか。皆さんは、そこで誰を思い浮かべられるでしょうか。私たちは誰に対して生きる責任を負っているのか。

無論、この世界に生きている私たちは、神様以外の誰かに対しても、責任を負って生きています。まず思うのは家族でしょう。隣人もいる。職場関係で言えば上司や部下、同僚。ワンピース世代だと、仲間と言うでしょうか。だって仲間だろうと。じゃ仲間でなければ無視していいのか。律法の教師がそうやって言い訳をしようとした時、イエス様は善きサマリア人の譬えを話されて、誰が傷ついた人の隣人、仲間になったと思うかと問われました。無視されていい人なんて一人もいない。隣人を自分のように愛しなさいと神様が律法で命じられたのは、だってあなた自身のことを考えたらわかるだろう、無視なんかされたくないだろう、ならあなたの隣人を、無視されてよいはずがない人を、同じように大切にしなさい、それが愛だ、それがわたしの心だと、神様は律法にご自身の御心を刻まれました。私たちが自分中心に何でも考える考え方から、神様中心に全てのことを考え直すことができるようにです。

そして、私たちが自分中心にでなく、神様中心に、神様を基準として何が正義で、何が悪か、また何が神様と人に対して犯された悪つまり罪に対する相応しい正義の報いであるかを、律法から考えるなら、それは死であることを知る。それが今朝の御言葉の「律法によって死んだ」という言葉の意味でもあるのです。先の譬えで言えば、律法が私たちに言うのです。あなたが人に対して気持ちを無視したり実際に無視したり、また傷つけ取り返しのつかんことをした数々の悪、同様に神様に対して犯してきた悪への、神様を基準にした正義の報いは死である。だから、あなたは聖なる神様の正義の裁きと執行を受けて死ななければならないと、全ての人は律法によって死の求刑を受けている。律法によって死ぬとは、そういうことで、「死んだ」とは、それを受け入れることです。

ただ問題は、死の求刑を受けているのに、いや、そんなこたあないと心で受け入れないということが起こる。すると「律法によって死んだ」とは言いきれず、律法によって死の求刑を受けたんだけれども、律法に対して、自分は律法を守りゆうやいかと、律法に対して死にきれないでいる、自分は律法に対して生きているように思っているのです、となってしまいます。何かややこしいなと思われるかもしれませんが、そんなややこしいことを結構やってしまっている。自分が基準になると、どうしてもそうなってしまいます。神様の基準で生きたいですと、神様に対して生きるのではなくて、自分が基準じゃないと納得できんということになると、結局、自分に対してしか生きていない。

ある人と、こういう話をしたことがあります。自分は人から良い人間だと思われたくて、配慮して喜ばれることを言ったり、行ったりして、悪いところは見せないようにして…と言いますから、いや、私もだよと応えますと、でも私はそれを神様に対してもやっているんですと。え?神様に良い人間だと思われたくて、って、神様は全部お見通しだから、良く見せてもバレてるし、偽善だから、良く見せるんじゃなくて、神様が、あなたにこのように生きて欲しいと求めておられる良さを、はいと神様に喜んでもらいたいという気持ちで求めたら?神様の評価基準って見えるところじゃなくて、そういう神様との関係、愛の信頼関係だからと言いましたら、やっと最近そういう自分がいるって気づいたんです、その自分から変わりたいですと言われました。

同じように悩んでいる人、あるいは気づいてもない人も、どうしたら変われるのか。今朝の御言葉は明快に答えます。自分では無理だ。私への求刑は死であるから。でもだからこそキリストが、この私を救うために来て下さった私の救い主なのだと信じる人の内に、本当に来られて、私たちと一体となられて、私たちが神様に対して生きられるように変えて下さるのです。キリストによって、私たちは神様に対して生きる責任を、キリストと共に負えるようになるからです。ただキリストの故に、神様の基準に、はい、アーメンですと言えるからです。

死を求刑する律法に対しても、自分は死ぬべき罪人ですと受け入れられます。その死をキリストが私のために受け入れられたからです。そのキリストを受け入れた私たちですから、私は死んだと受け入れられる。そればかりか「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」と、言い換えれば、私は新しい私として、もはやキリスト抜きでは生きられない、キリストと一体とされた私なのです!と宣言するのです。夫婦が、もはや独身ではありません!と宣言する喜びと同じ。その愛の責任を、キリストと負って生きるのです。