ガラテヤの信徒への手紙2章19-20節、イザヤ書9章1-6節「信仰とは愛の信頼関係」

17/12/10待降節第二主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙2章19-20節、イザヤ書9章1-6節

「信仰とは愛の信頼関係」

この同じ御言葉から、三度目の説教となります。そうそう、野口牧師そういうがあ多いがやきと思われる方もおられるでしょう。でも敢えて言い訳をしますと、普段そういうのが多いのは、御言葉がこれを伝えているのだから!というメッセージを伝えきれなくて長くなるのですが、今回はそれだけじゃない。今回はその理由に加えて、私がこの御言葉を好きだから、そして皆さんにも好きになって欲しいからです。

身勝手に聞こえるかもしれませんが、何故、好きなのか。そこが急所ですが、生き方が変わるからです。あるいは人生観が変わる。生き方についての考え方、態度の基準が変わるとも言えます。私たちの生き方がおかしくなっている時、この新しい基準から、今の生き方を見て、あ、いかんいかん、と道を、くるっと変える、正しい道を指し示す道しるべのような御言葉が、これです。

私が洗礼を受けてすぐだったと思います。留学先の大学でキリスト者のサークルがあって、聖書の学びをしていました。そこで暗唱聖句として出会ったのが、この御言葉でした。「私はキリストと共に十字架に…、…に対する信仰によるものです。」私は衝撃を受けました。

それに先駆けてこういうことがありました。私がイエス様を救い主として受け入れてから、しばらくして、友人のおばあちゃんが亡くなったと聞き、祈っていて、涙がボタボタッと零れた。私はそれまで物ごころついてから泣いたことがありませんでした。一緒に暮らしていた曾祖母が亡くなった時も私だけ泣いてなくて、そんな冷たい自分が嫌なのに、どうしようもない。どうにもならない愛のない自分が、会ったこともない友人のおばあちゃんのために涙を流して、最初、何が起こっているのかわかりませんでしたけど、あ、これは私がイエス様を救い主として心にお迎えしたから、私の主として私をあなたの望む者にして下さい、と祈ってイエス様をお迎えしたのだから、イエス様が私の内で祈って愛して涙を流されているのだと思った。ああ本当にキリストは私の内に生きておられると、実感したという体験をした。

その後で「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」の御言葉に出会って、我が意を得たり、と言うか、アーメン、と腑に落ちた。ですから好きな御言葉と言うか、この御言葉は、私とは一体誰であるかを、一番自然に説明する御言葉となったのです。ある意味、身分証明書のような御言葉です。

私はこの御言葉を英語で覚えたのですが、日本語で暗唱しているのは実はこの新共同訳ではなく、文語訳です。

神学校に行った時です。教授が「もはや我生くるにあらず。キリスト我が内に在りて生くるなり」と、目をつぶり、唱えるように言われた。いや、唱えられたと言っても良いでしょう。「もはや我生くるにあらず。キリスト我が内に在りて生くるなり。」皆さんも、そう唱えられたら良いと思います。ま、今、唱え始めたら、御経みたいになるので(笑)、家に帰られて唱えられたらと思います。無論、唱えたらご利益があるという理由ではありません。聖書の言葉というのは、そういうパワーストーンみたいに、つけているだけでご利益があって、いや~唱えたら、宝くじが当たって、しわがなくなって、中性脂肪が減って(笑)というようなことはない。運気があったり、それを呼びよせたりという魔術的な考えと、聖書は無縁です。

じゃあ何故唱えるか。キリストが私たちの内で喜んで聴いて下さっているからです。愛の告白と同じで、それを教会では、信仰告白と呼ぶ。キリスト我が内に在りて聴かれるなり。それは目には見えない。けれど見える以上に確かなキリストの救いがそこにある。インマヌエル、神様が私たちと共にいて下さる、というクリスマスには一層の喜びの響きを持って聞こえるキリストの呼び名がある。インマヌエル、神様が私と共におられる。キリスト我が内に在りて生くるなりですと告白し唱える。キリストも、そうだ、もはやあなたが生きているのではない。わたしがあなたの内に生きていて、あなたはわたしと共に生きる者になった!と喜んで、アーメンとおっしゃって下さるからです。

この御言葉を唱えるというのは、譬えるなら、先週の説教の最後にも少し申しましたが、妻や夫に向かって、一緒に生きてくれて本当にありがとうと言うようなものです。もはや私は一人の独身ではない。私だけで生きているのではない。同様に、いや人間の夫婦は問題が多いですから全くそれ以上に、しかし同様に洗礼が指し示す救いの奥義がある。それは、私はキリストと結ばれた!その一点で、唯その理由で、キリストが私を救って下さる。それはキリストが私の主として分かちがたく私の内で生きておられるからだ。だから私は、そのキリストを信じて生きられて、もはや自分を信じて生きなくても良いのです。

御言葉は続けて何と言っているか。「私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」

私を信じるのではない。私を愛し私のために身を献げられた神の子、クリスマスに人として生まれて来て下さった、しかも私の罪を負われて十字架で死んで私を償うために来られた神様、イエス・キリストを信じる。その信仰によって、良かった、だから私は生きられる、イエス様、ありがとうございますと言える。私は本当に救い主と一緒に、その信頼関係の内に、一緒に生きられるんだと、安心して生きて、また安心して死ぬることもできる。この命は、それほど確かに救われた命なのだと、キリストと一つになって生きる命を安心して持つことができるのです。

その理由は、キリストが、私たちのために生きておられるからです。そのキリストを信じて、私を、命ごとお委ねするのです。

信仰によって生きる。それは信頼して生きるということです。

急所は、誰を信頼するかです。自分を信頼して生きるのか。あるいは何かを、誰かではなく、何かを信頼するのか。お金を信じたり、力を信じたり、考えの正しさを信じて生きるということもあるかもしれませんが、結局は自分が正しいと考える自分の正しさ、自分を信じるのでしょう。そういう自分信仰は、キリスト信仰と真っ向から対立するのです。だってそういう私は死んだと言って、退けるのですから、要するに自分を信じることは、もうしませんと意思表明をするのです。私は自分ではなくて、あなたを信じますと。

告白ってそういうところがあるでしょう。聖書の譬えなので、何度も譬えますが、夫婦関係でも、ごめん、我がままやった、自分じゃなく、あなたを信じると言ったら関係が良くなるってこと、あるんじゃないでしょうか。どんな人間関係でもそうでしょう。私たちが生きているというのは、誰かと生きているのに、それは要するに、愛が求められる命を生きているのに、まるで自分だけで生きているみたいに、愛することさえ、愛することのできる自分を信じて、私は頑張って愛しているのに、ってやってしまうと、え、愛されているように思えない。それは自分を愛しちゅうがやお、と関係がおかしくなる。〈共に〉がおかしくなる。

おそらくそこで、いや自分は頑張って生きている!と思っている心の表情を鏡で見たら、ゾンビみたいな顔をしちゅうのです。ショッキングな言い方ですが、聖書の言い方を今風に訳し直したら、私は十字架につけられて死んじゅうのに、死んじゅう私が、私は私はと我を通すなら、そういう私ファーストになっている時の顔って、きっとゾンビみたいな顔をしている。鏡に映った顔の後ろで、マイケルジャクソンのスリラーが流れ出す。でもそのBGMを、神様は変えられるのです。

そこで、この命の御言葉を唱えるのです。生きることがおかしくなってしまった時、向いている方向がおかしくなってしまった時に、私が主では、なかった!私を信じて生きるのでは、なかった!私は、十字架につけられて共に死なせてもらったんだ!と、命の言葉に立つのです。

「私はキリストと共に…神の子に対する信仰によるものです。」

そこで改めて鏡を見たら良い。一人じゃないでしょう!キリストが共におられるのが、本当の私たちの命です。もはや、私が主であるような私は、生きてないのです。生きているのは、もはやそんな私ではない。生きているのは、キリストが主である私です。キリストが、あなたのためなら死んでも良いと、私を愛して、全部償って、本当に生かして下さって、永遠の命に生きさせて下さる。その私の救い主イエス・キリストを私は信頼して、私の命も死も全部背負われて生きている。その私が、キリストとの信頼の絆によって生かされているのです。

それ以外の私が、キリストの100%の愛と救いに身を委ねないまま、私が私の主になって、私を信じて何かやっている時、ゾンビのような顔をしている時、今日の御言葉が必要なのです。皆に必要な御言葉です。この命の言葉は、誰があなたの主ですかと問います。十字架で私たちを愛し抜き、償いきって、一緒に死んで下さった、そして今、復活の恵みの光のもとで、一緒に生きておられるキリストが主であるのか。そうだと、それ以外の私は生きていない。以前はそうでも、もはや!そうではないのだと、御言葉は宣言する。私たちも一緒に、アーメン、それが私です。キリストによって、キリストのおかげで、それが私です。もはや我生くるにあらず。キリスト我が内に在りて生くるなり。アーメンと、キリストへの信仰の告白、キリストの愛に応えての、信頼の告白を捧げれば良い。

クリスマスの喜び、キリストが来てくださったという平和の喜びは、この信頼を通して、命の実りを結ぶからです。