マルコによる福音書5章21-34節、詩編103篇「全て失われた主の故に」

19/4/14棕櫚の主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書5章21-34節、詩編103篇

「全て失われた主の故に」

安心して行きなさい。そうおっしゃってくださったイエス様が、そのために十字架にかかって、私たちの一切の罪の償いをしてくださった。その愛と救いとを改めて記憶する、キリストの受難日を、今週の金曜に迎えます。色んな迎え方があると思います。教会によっては朝早くから祈祷会や礼拝を行う教会もあります。あるいはそうやって主のご受難を覚えることが相応しいと思いながら、いつもと同じように、慌ただしく子供たちを学校に行かせ、自らも仕事に行くという方々も少なくないでしょう。でもその時に、安心して行きなさいと、イエス様が笑顔でおっしゃって下さっている、そのイエス様を覚え、ありがとうございます、行ってきますと、十字架の主を信頼して祈りを捧げることができたら、どんなに幸いかと思います。

今朝の御言葉は、また次週に説き明かします続きの部分と一続きで、どちらもイエス様を信じること、そしてイエス様は、まことに信じるに値する救い主であることを証言しています。

今朝の説き明かしは、最初に語り始められた救いの出来事に、言わば割り込むようにして入って来た、もう一人の女性の救いに集中します。この女性は、幼くはありません。父親のことも言われません。明らかに大人だったのだろうと思われます。ひょっと結構な大人だったのかもしれません。イエス様が娘よと言われますから、なら20代とか30代とかかなとも思いますが、大阪の商店街とかだと、50代ぐらいのご婦人に、そこのお嬢さん!言うて声かけて、その方も、はい!言うて振り向かれますから、この女性も、ちょっとわかりません。

無論、わからんでかまんのだと思いますけど、次のことは、わかってないといけない。彼女は、追い詰められていました。26節はそれを強調して畳みかけるような文章です。「…」。

もう後がない。全財産を使い果たしたとありますが、直訳は「彼女の一切を」使い果たしたです。気力も体力も、何もかも、使い果たして、無くなってしまった。今の日本のように社会保障があるわけでもない。今の生活がもうできなくなるのは明らかです。病気のせいで、おそらく稼ぎ口につくこともできない。先のことを考えると不安しかない。というか、これからどうしたよいのか、何も考えられなかったんじゃないでしょうか。漠然とした不安、でも背筋を冷たくする現実としての不安に追い詰められて、息をすることさえ苦しくなる。

味わったことないでしょうか。そうした、押しつぶされそうな不安とストレスを。逃げられるなら逃げたかったでしょう。でもどこにも逃げ道がない。どうしようどうしよう、と追い詰められていたと思います。

その時、イエス様について聴いた。あるいは、です。この時に初めて聞いたのでしょうか?というのは、これまでの福音書の展開と、ここで12年間も病に苦しめられていたと敢えて言われていることからすると、イエス様について聞いたのは、この時に初めてというのでは、なかったかも、と思うのです。

この福音書の最初の1章から、イエス様はペトロの住んでいた町の人々の病を癒された。そしたら思い皮膚病の人や、中風の人もイエス様のもとに来て、3章になると、もう近辺のガリラヤ地方だけじゃなく、言わば四国全体からぐらいの距離から、おびただしい群衆が、イエス様のもとに押し寄せてきておったことが、既に記されておっての、今朝の御言葉なのです。ですからこの女性も、そのイエス様については、既に聴いておったんじゃないか。知り合いの方とかが、ちょっと、あなた、今こんな方がガリラヤ地方に現れて、どんな病も癒されてね、神様から遣わされた約束の救い主じゃないかって、持ちきりの噂なんだけど、というような話は、聞いておったんじゃないかと思うのです。

どっかで聞いたのは確かなのです。それでイエス様のもとに来たのですから。でも、どの時点で聞いたか。いや、どの時点で、このイエス様のもとに行こう!と思ったのでしょうか。

ひょっとまだお金がある内は、あるいは「多くの医者にかかって」と言われますから、いや、今のお医者さんが処方してくれている薬がもう少ししたら効いてくるはずだからとか、いや、まだあのお医者さんには診てもらってないから、まだお金があるから、まだ…。私たちも、そういうの、あるかもしれません。

でも、自分の一切を使い果たして、しかも「ますます悪くなるだけであった」と言われますから、お金の余裕がなくなっただけでなく、心の余裕もなくなって、追い詰められていく。

それは将棋で言えば自分の持っている手持ちの駒が全部なくなって、自分の陣地にあった金もない、銀もない、王である自分を守る駒がどんどんなくなって、本当に何にもなくなって、王である自分が、どんどん追い詰められて、もう逃げ得る場所もなくなっていく状況でしょうか。

もう将棋盤の外に逃げるしかないと思うほど、追いつめられてしまうってこと、ありますよ。将棋盤の外に。それは、もし神様を知らなければ、自分の人生の外に、落ちてしまうことを意味するかもしれません。あるいは、いわゆる人間的な生き方から脱落する、という状況もあるでしょう。太宰治の人間失格というイメージも、それに当てはまるのかもしれません。

でも、なのです。人生というものは、そんな自分の手持ちの駒だけで勝負していかなければならない、手持ちの駒が無くなったら人生はもう詰んだ、全部終わりだというような、そんなにも、ちっぽけなものではありません。そんなちっぽけに思える、いや、そんなちっぽけな人生にしてしまっている私たちを、遥かに想像を超えて大きな愛と赦しの中に包み込んで救われる、神様がおられるからです。

この女性は、追い詰められた末ではありますけれど、それでも、その神様のもとに行こうと、話に聴いたイエス様について、おそらく噂以上のことは、何も彼女はわからんかったろうと思いますし、言わば自分で思い込んでおったような、勝手に誤解して信じ込んでいるところもあるのです。それでもです。このイエス様のもとに、私の救いがあるのじゃないか、そこに私は行かなければならないのじゃないかと思って、自分の外に足を踏み出した。そこで、自分の将棋盤の外で、彼女は、彼女の救い主として死ぬために人となられた神様、イエス様と出会うのです。

ただ、それは単に群衆に囲まれて、すぐには見えんかったイエス様を見つけることが出来た、それで触ることもできたというのではなくて、イエス様のほうから彼女に出会って下さるのです。きちんとイエス様と顔と顔とを合わせて、しかも本心を露わにして、全部ありのままに告白して、それ全部受け止めてもらい、心と心で向き合って出会う、人格的に神様と出会うということを、イエス様のほうから彼女に求められた。そして彼女は心と心で、十字架の神様、イエス様に出会うのです。

もっと丁寧に言えば、さっき、彼女は勝手に誤解して信じ込んでいるところがあると言いましたが、それは彼女がイエス様の服にでも触れれば癒されると、まるで持っているだけでご利益があるパワーストーンのような、言わばイエス様をモノ扱いしているようなところがあったのです。そして、彼女の側の都合から言えば、それで癒されて、そっと家に帰るほうが都合も良かったのです。何故なら、当時は宗教的汚れという旧約の戒律のもとで、出血の止まらないこの女性は、宗教的に汚れているから、人に触れてはいけないとされていたからです。でもイエス様に触れるためには、群衆に遮られてますから、人に触れないでイエス様にだけ触れるなんて無理です。じゃああきらめたか。あきらめられないですよ。群衆の中に体をねじり込んでイエス様のもとに行くのです。破れかぶれで、もし見つかって殺されるようなことになってもいいからと、治らなかったら、どうせ死んだも同然で未来はないからと思ったのか。そうかもしれません。自分がいかんことをしゆうという自覚はあったと思います。何故なら後で「わたしの服に触れたのは誰か」と、イエス様が彼女を見つけようと、一生懸命に、あきらめないで、辺りをぐるぐると見回しておられるのを見て、彼女はどうしたか。自分の身に起こったことを知って、恐ろしくなったのです。

それは、癒されたことが分かったというのではなく、そうだ、自分の身に起こったのは、神様が触れて下さったのだと。そこで起こった言わば宗教的な、あるいは信仰的な、霊的な出来事の主役は、神様だ!神様が私に触れて下さったんだ!私が信じたからとか私が触れたからとか、私がどうのではなくて、神様が!私を癒して下さったと知った。だから畏れたのです。私の一切をご存じで、心の中をもご存じの神様が私に触れて下さったのなら、その神様を私は無視して、イエス様の後ろからこっそり触れたらいいんだ、そしたら癒される、そして誰にも知られず家に帰ろうと、自分に都合のいい信仰だけ思っていたのに。それはしたらいかんことだったのに。その私に触れて下さった神様に、私は何を隠せるろうと、それでイエス様の前に進み出たのです。そして震えながら、言わば全てを白状するのです。申し訳ありませんでしたと。神様から私は裁かれると思ったのじゃないでしょうか。

でもイエス様は「娘よ」これ年齢とかじゃなく、神様が私の娘よって言われる言葉でしょ。娘よ「安心して行きなさい」と言って下さった。直訳は「平和の中に向かって行きなさい」。優しい笑顔で言われたと思います。責めないのです。自分のことしか考えてなかった恥ずかしい信仰、服に触ればとか、後ろからという、神様と人格的に向き合わないままで自分が信じているような自己中心の信仰を、それでもあなたは、わたしのもとに来たろう、行かないかんと、神様のもとに来たろうと、もう、イエス様のもとに信じて来た、ただそれだけで、それは信仰だと、主が受け入れて下さったのです。

それが、十字架で私たちの罪も汚れも誤解も恥ずかしいことも、全て引き受けて死んで下さった神様なのです。その神様を信じて救われる、いや、そんなにも救いの神様だから、信じて飛びこんで行けるのです。