マルコによる福音書5章1-20節、イザヤ書65章1-5a節「死の束縛から自由に!」

19/4/7受難節第五主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書5章1-20節、イザヤ書65章1-5a節

「死の束縛から自由に!」

彼がつながれていたのは、墓場にではありません。おそらく彼の家にです。家にいて欲しかったということもあるでしょう。けれどおそらくそれだけではなく、危険だと思ったからじゃないでしょうか。

でも何によっても彼を、つなぎとめておくことはできませんでした。鎖を引きちぎり足枷は砕いて逃げだすのです。当たり前だろうとも思います。誰だって鎖でつながれたくなんかはないでしょう。ただ、それを引きちぎるというのは、常人にはできません。常人離れした悪霊の力の働きを、そこに見る思いがします。

でも住民に危害を加えた、とは言われません。全く理性が奪われていたのでもなかったのでしょう。それは後に悪霊が豚の群れに入った時、新しく支配した者たちを即座に死に至らせたことからもわかりますが、彼は豚が持っていない理性によって、死ぬことを必至で拒んでいたのだと思います。そして人に危害を加えることも必死で拒んでいたのではなかったでしょうか。きっと自分でもわかっていたのです。自分は皆から危険だと思われていることを。また自分でも理性で抑えきれない暴力的発作が起こったら、何をするかわからんと思ったからでしょうか。彼は自ら、人に危害を与えない場所に行くことを選ぶのです。

それが墓場でした。墓場。そこは人生が終わった人が葬られるところです。自分の人生は終わった。この人は墓場でそう思っておったのではないか。今日も地域の方々に配ります「喜びの泉」という伝道トラクトに、私はどうやって救いに導かれたかという証が載っています。そうした証で、よく聞くのです。例えば視力を失う等の重い障害を負われた方が、自分の人生はこれで終わったと思ったと言われます。読みながら、胸が痛みます。その痛み、悲しみに、私もきっと同じように思うだろうと感じるからです。この行き場を失って墓場に行った人もまた、どんな思いで墓場に向かったのだろうと思うのです。

でも彼は死を選びませんでした。あるいは選ぶことを考えたとは思います。何度も延々と考えたと思います。でもと死を拒む。でも苦しい。苦しくて自分を傷つける。ひょっと死ねるかとも思いながら。いや解放されたいと苦しみながら。傷つける痛みで、苦しみから逃れたかった。その気持ちはわかるのです。

そして叫んでいた。それもわかるのではないでしょうか。叫びたい苦しみ、怒りがあるのです。自分は何でこうなのだという怒りも含めて。何もかもについて叫びたい。怒りを吐き出したい。常人なら叫ばないのかもしれません。愚痴を吐き出す程度で小出しにできる程度の怒りだということかもしれませんし、確かに怒りを自制するのは大切なことでもあるのです。聖書は「怒っても罪を犯してはならない。日暮れまで怒り続けてはならない。悪魔に隙を与えてはならない。」(エフェソ4:26)と命じます。悪魔は怒りを足場にして、人生を、そして人間関係を壊します。よくわかると思います。怒っている人の側には誰もいたくない。もし共通の怒りであったら、共感して一緒に叫ぶこともあるでしょう。選挙とかでも叫んでそうです。こんなことは変えなきゃいけない。そのためにお力添えをくださいと。

この人も、本当は変えたかったに違いないのです。でも何も変えることができなかったのでしょう。また他の誰も、彼の状況を変えることができなかった。それも苦しかったと思います。誰にぶつけたら良いのかわからない怒り、叫びが止まらなかったのだと思います。誰がその叫びを聴いてくれるのか。聴いて、そして動いてくれるのか。

神様が聴いて下さって、イエス様を彼のもとへ、遣わされたのです。神様は彼の叫びを聴かれました。昔エジプトで奴隷とされ苦しめられていたイスラエルの民の叫びを聴かれた神様が、ご自分の民ではないこの人の叫びをも聴いて下さって救い主を遣わされたのです。何故ならこの人のためにも、神の子は人となられたのだからです。この人のためにも十字架で全てを負うために遣わされてきた救い主だからです。

詩編(106:9)で、出エジプトの時は神様が海を叱咤されたら海が逃げて行って道ができたと歌われていますが、この時はイエス様が彼のもとに行くのを、まるで邪魔をして留めるようにして起こった嵐に向かってイエス様ご自身が黙れと叱って、彼のもとに行く道をつながれました。キリストが彼を救うための、また私たちを救うための道だからです。

そして彼はイエス様に会いました。会って何をしたか。来てくれて、ありがとう、と感謝はしませんでした。むしろ、かまわないでくれ!とひせくるようにして叫んだ。直訳は「私とお前に何があるのか」です。何の関係もないろう、放っといてくれと。無論、悪霊の言葉です。彼は「いと高き神の子イエス」なんて名前さえ知らんかったでしょうし、後に悪霊がレギオンという名を述べることからも明らかです。

そしてここにもう一つ明らかにされたこともあります。悪魔の目的はいつでも、人を神様から引き離して、十字架の救いの神様と関わらないようにさせることだ、ということです。神がいたとしても自分とは関係ない。だから放っておいてほしい。特に救いについては。自分で何とかなるから、と悪魔は言わせる。本当はこの人も知っているのに、です。何ともならないと。それでも神様を求めることに対して、理性を超えたブレーキがかかり、近寄って頭を下げているようでいて距離を作って、放っておいてほしいと壁を作る。苦しむことになるからとさえ言って。

短気な人なら、だったら好きにしなさいと、逆に腹を立てて、悪魔の思う壺になるのかもしれません。でもそれは人には通用してもイエス様には通用せんのです。その悪魔の偽りからも人を救い出すために、命を捨てて来られた救い主には、嘘は通用せんからです。

悪魔と、悪魔が足場にして人を滅ぼす罪は、関わりを嫌います。でもその人を救うために命を捨てられた神様の愛は、関係を求め、共に生きることを求めてやみません。神は愛だからです。神様は私たちを求め、共に生きることを、私たちの父として本気で求められます。父にとって疎外されたままでいて良い人、一人ぼっちのままで良い人、孤独なまま人を呪い神を呪い自分を呪って死んで良い人など唯の一人もおらんからです。私たちは皆、神様の子供となるために生まれて来たからです。

だから神様は私たちをかまわれます。かまうなと言っても愛します。そしてキリストを与えられます。私たちに嘘の生き方、傷つける生き方を強いる悪霊を、神様が愛してやまない人から追い出して、正気に戻させることが、キリストにはおできになるからです。そして正気になった人は、イエス様のもとに座り、それまで自分には必要ないと思っていた救いの御言葉を、求めて聴くことができるのです。

ルカ福音書でイエス様が話された放蕩息子の譬えでは、正気になるというのは、我に帰るという言い方でも言われます。人が我に帰るとは、私には私に命を与えて下さった神様がいる、私には父なる神様がおられると、父との関係に帰ることだと、イエス様は教えられました。神様にかまわれたくないという思いから我に帰る。神様との関係に帰る。そこに、ただ失った人生を取り返すというだけではない、神様の子供として生きる喜びが回復し、そしてその喜びは広がるのです。イエス様が湖を渡って来られたのも、彼一人だけのためではなかったのです。この人を何とか家につないでおきたいと願いながら、できなかった、でも求めていた人々のもとに、主は彼を帰されました。人を救うのは、神様であることの証人として。その救いの証の中に、私たちも生きているのです。