24/6/9主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書10章21-25節、ミカ書7章1-7節
「弟子の関係以上の家族」
先に読みましたミカ書が、私たちの状況と重なるなら、世も末という感じがしないでしょうか。誰も信用できない、自分だけしか…でも何で自分は特別なんでしょうか。だから家族が信頼できないのではないか。家族でさえ自分を信じる個人の集まりになったら、自分の意に添わない家の者を、家族なのに、何でお前は違うのだ、もう家の一員ではないと関係を断ち切ってかまわないと憎む。だって皆と同じようにしてない、というのが迫害というものの中味でしょう。
でもそれは、家族の在り方ではないだろうと、イエス様は弟子たちに、でもあなたがたはわたしの家族だと、家族の愛と信頼関係に、家族関係で呼ばれる一体の絆に結び付けられます。そして、もし迫害に遭っても、そうだ、私はイエス様の家族だからだと、家族関係の故に慰められる。
このミカ書は、左頁上にも改めてガチッと引用されるほど、こだわる、特に「天の父のご支配」にこだわるマタイが、だって家族やに!と無視できない、父の悲しみの根幹に触れる関係の急所なのです。
それが直前の20節では、イエス様の証しをせないかん時、あなたがたの内で、あなたがたの父の霊が語られるからと、子どもたちに対する父の救いのご支配が約束された。その直後に!でもその子たちの肉の父が、その子を死に追いやると。何でそんなことになるのか!という天の父が私たちに求められる家族関係に、生きてない、むしろ家族を死なせる、自分中心の人間のおぞましさがハッキリ際立てられて描かれるのです。
「兄弟は兄弟を死に追いやり」と、先ず「兄弟」を例に出したのも、そもそも前の頁で、弟子たちは「イスラエルの家の失われた羊たち」に遣わされましたから、本来、同じイスラエルの家の家族、天の父からもイエス様からも、迫害してくる人は兄弟以外の何者でもない。イエス様をベルゼブル・悪霊の頭(9:34)と呼ぶ人たちは、でも同じ失われた羊を罪人(9:11)と呼ぶ。自分は違うという態度なのです。でもその迫害する人たちをも、あなたがたは兄弟じゃないのか、父の子じゃないのかと、父との関係によって向き合われる。それが父の御心だからです。
それがわかるのが、続く弟子と師、また僕と主人の関係とも言えます。弟子と師は、師匠の教えを学ぶという、目的によって成り立つ関係です。だからもし師匠の教えを聴かないなら、じゃあお前はもう弟子ではない、だって師の教えに学ぶ関係が、師と弟子の関係だろうと説得をされる。また当時の社会制度ですが、僕は主人に仕えるという目的で関係が成り立っているので、もし、残酷な話ですが、事情で仕えられなくなったら、その関係は終わる。じゃあその直後に、あなたがたはわたしの家族だとイエス様が確かめられた家族の関係はどうか。師と弟子、主と僕みたいな、目的によって成り立つ関係なのか。何かしなければ、もしできなくなったら家族の関係は終わりか。決してそうではない。天の父が愛される子を、死に至らせるほど失われた家族であっても、でも失いたくない、失い得ない!と、永遠の御子を犠牲にするだけではない。御子に従って、失われた家族を父のもとに連れ戻すために遣わされた子どもたちにさえ、あなたがたも憎まれるかもしれない、でも耐え忍んでくれないだろうかと求められるほどに、狼のように自分自分になった家の子たちを、自己責任で滅びに向かわせられない父なのです。もし家族に目的があるなら、家族であること、家族関係の愛と信頼関係に共に生きること、何故なら家族だから。それが私たちが父よと呼ぶ、父の救いの根幹なのです。
結婚準備会をする時に一緒に読む本の中で、牧師への、こんな質問が出ます。キリスト教式だと離婚できないというのは本当ですか。牧師は答えます。離婚できますから、安心して結婚して下さいと言えば、安心しますか?質問がおかしいとわかりますよねと。愛するとは、聖書では選ぶこと。選ばないことを憎むと言います。でも人は兄弟を選べない。親も。また親も子を選べない。選べると思うところに、じゃあ選ばないこともできるという憎しみの原因が、もう芽生えています。皆、父なる神様に愛されるため、父との関係に生かされ生きて、愛され愛するため選ばれて!生まれて来た。地上の誰一人、自分で自分を選んで生まれて来た人などおらんのに、父を父とせず、父を殺すような生き方を自分が選んで生きるなら、確かにその人は父の家から失われ迷い出た羊であり、自分が一体何者であって何のために生まれてきたのかも見失ってしまう他にないじゃないか。そして、私たちの存在も命も、私たちの天の父が愛に生きるために選ばれたのだと伝える「父のご支配の福音」が、嫌だ、自分が!となったら、あなたがたは憎まれると主は悲しんで言われます。そして迫害が起こったら、逃げて良いと言って下さる。自分のノルマを果たせと僕をモノ扱いする主人ではないから、ノルマが済んだら迎えに来るとも言われない。皆に伝えきれてなくても、わたしが責任を取って迎えに来る。こんな世界を、それでも背負って救うわたしが、わたしの家族を迎えに来ると約束されるから、その愛に家族として生きるのです。