24/4/7復活節第二主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書9章9-13節、ホセア書6章4-6節
「立ち上がらせる憐れみ」
イエス様が「わたしに従いなさい」、ついておいでと招いておられます。それはマタイにだけ与えられた恵みではなく、すべての人に向かって、イエス様が、今この瞬間にも、招き与えてくださっている救いです。
マタイが以前からイエス様と面識があったかは、わかりません。でも自分の生き方は病んでいるという病識、罪の病の認識はあったようです。家に呼んだ知り合いにも自分にも、悪いところがあると自覚していた。いや、自覚だけでなく、直るなら直したい、生き直したいという思いも、きっとあった。皆そうじゃないでしょうか。直したい部分、私は幾つもあります。本当ごめんなさいと思いながら、あきらめている部分もある。でも、この御言葉から改めて、主よ、私も立ち上がらせて下さいと思う心をいただきました。マタイはイエス様から「わたしについてきなさい」と招かれて、はいと立ち上がらせていただいたのです。
すぐ前の、まさにイースター礼拝での御言葉で、人の力では起き上がれなかった病人が、主の御言葉によって起き上がらせて頂いたように!私たちを罪の病と死から、起こし、立ち上がらせ、イエス様に従って、はいと生きられるよう、復活の主が!今も招いておられます。
そしてマタイが主に従って、最初に何をしたかが紹介されます。知り合いを、イエス様のもとに招くのです。主があなたも招いておられると。それが、伝道です。イエス様が「悔い改めよ、天の国は近づいた」(4:17)と伝道された。それは、生き方の方向を変えて、わたしに従いなさい、神様の救いのご支配が、もうここに来ているから、共に生きて行こう、ついて来なさいと、今日と同じように招かれるのです。そのイエス様に、はいと方向転換して主を信頼して生きる生き方を見てもらうのを、証しと言います。それこそ一緒にご飯食べようや、という普段の生活の中で、私はイエス様に招かれて立ち上がらせてもろうたから、こうやって生きていくと、共におられる復活の主を証しするのです。そしてその神様に、あなたも招かれているからとイエス様のもとに来てもらうには、やはり礼拝に来てと招く。それが伝道の基本なのだと改めて思わされます。
マタイの招いた知り合いが、皆イエス様に従ったとは考えにくいです。私も中学生で南国教会の英語教室に行ってた時、誘われてクリスマスの礼拝に行きましたが、毎週、来ようとは思いませんでした。日曜の朝に、グダグダするほうが自分にとっては「正しい」(笑)。そう思ったのです。今もグダグダは好き(笑)。でも何が自分に正しいか、は変わるのです。
自分が何を「正しい」とするか。それがこの御言葉のキーワードです。牧師が言うのも何ですが、私は決まりを守るのは大切だと思いますけど、決まりだから守るというのは、キリスト者になる前から好きではない。今はその理由がわかります。律法主義だからです。誰のために守るのか。それが抜けている。あるいはとにかく自分の正しさを守るため。それが律法主義です。愛のない正しさ。誰かを守るためにという憐れみがない。それはきっと誰にとっても、おわかりになる話だと思うのです。
主が言われた「いけにえ」とは、罪を犯し、神様との関係も、人との関係も壊し汚してしまう罪を償って、ごめんなさい、えいでと和解するために、神様が決めて下さった、そしてそのために三位一体の御子が、全ての人のための「いけにえ」として来て下さった!それ以外ではない。なのに、だって決まりやきと、礼拝も愛することも神様が死なれたのも、決まりやきという律法主義でやるなら、そこには愛の関係も信頼の関係もないじゃないか。だって神は愛なり!だから自分自分の罪で、人生も、何が正しいかも死ぬほど病んでしもうても、だからこそ!わたしは命を捨てて救いに来た、あなたに必要な救いの憐れみだと主は来て下さった。そして「わたしについて来なさい」と、神様との愛の関係の義しさに、また隣人を愛する義しさに、さあ共に歩もうと招かれるのです。
この9章と前の8章はイエス様のもとにやって来た多くの病人を、主が深く憐れみ癒される話で埋め尽くされています。その中で罪とは何かを、病に譬えて教えるのです。人との関係も、神様との関係も、愛の義しさが病んで愛に生きられなくて、相手を苦しめ自分も苦しんで生きている。その罪人でない人がいるのでしょうか。その罪を神様が負って下さって、赦されて癒されて、愛と救いの健やかさに一緒に生きて行こう、わたしについてきなさいと招かれる神様を必要としてない人は、一人もいない。だからマタイの時とまったく同じように、神様のほうから歩み寄られるのです。あるいは、あきらめて罪の中に座っている私たちのもとに来て、笑いかけ、イエス様のほうから信頼関係を差し出して下さって「わたしに従いなさい」と、背負い、あきらめないで、招いてくださっている。
だから譬えるなら、医者から、どこがお悪いですかと聴かれて、私は悪くない(笑)と答えなくても良いのです。皆、神様の愛の形に創られ、なのにその愛が病んでおればこそ、愛し赦して共に歩んで癒して下さる神様が、皆、必要なのです。その神様に、共にお従いすれば良いのです。