マタイによる福音書8章28-34節、詩編73篇21-28節「拒まれる神の子の来訪」

24/3/24棕櫚の主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書8章28-34節、詩編73篇21-28節

「拒まれる神の子の来訪」

「イエス様に会おうとしてやって来た」。直訳はイエス様との出会いのため出てきた。イエス様と出会う。神様と出会う。人生を変える出会いを神様は私たちに用意して下さっています。私もそうでした。イエス様に留学先で出会うことは、私の計画にも予想にも一切ありませんでした。人となられた神様、「神の子」が、私を求めて下さり、出会って下さり、その出会いが私の人生を丸っきり変えてしまいました。良いようにです。でも、もしイエス様に出会う前の私が、その後の人生を見れたとしたら、ああ自分は多くを失って、損をすることになると思ったかもしれません。自分の人生に関わらないで、離れて欲しいと、思ったかもしれません。

今日の御言葉で、イエス様との出会いのために出てきた町の人々も、そう思ったのでしょうか。出て行ってほしいと言うのです。ショックな展開です。イエス様はどんな気持ちで、どんな顔で、人々の言葉を受け止められたのでしょう。気分がいいはずはないのです。でも全部、もう既に彼らを十字架で背負われるようにして、人々を受け止められます。

その出会いは、イエス様が悪霊に取りつかれた二人と出会うために、舟で嵐の湖を渡られたところから始まります。実際は弟子たちもいたのですが、敢えて御言葉は、彼らが出会うイエス様がどんな神の子なのか、その神の子を人はどう受け止めるのかに、集中するため、他を削ります。そのイエス様に向かって二人は叫ぶ。直訳は「私たちに、あなたに、何があるか、神の子よ」。つまり何の関係があるのか。関係ないだろう、何もないだろう。取りつかれた人たち自身、思ったかもしれません。こんな状態の私に神様が関わってくれるはずがない。苦しめられるだけなら、放っておいてほしい。あなたと私の間には何もないだろう。でも神様は、そのあなたを罪と死と滅びから救うために!わたしは来た。何があるか。あなたを救うために捨てられる命がここにある!わたしは主、あなたの神だと、神様なのに死なれる権威によってその神の子を妨げる悪霊に、たった一言「退け!」と命じられ、悪霊は二人から出ていきます。

荒野の誘惑で、また十字架の死を妨げるペトロに「退け、サタン」と言われた同じ言葉です。ご自分を捨てられる神様の権威ある言葉です。

その権威は、でも悪霊が人を暴力的に支配するような力ではないから、だから町の人々に、あなたこそ出て行って欲しいと拒まれてしまいます。

最初は、イエス様がどんな方なのか出会うために出てきたのですから、良いスタートだったのです。でも実際に見たら、ユダヤの服(9:20)を着ていて、何だ、自分たちの豚を汚れた動物だと拒む、自分たちを拒む民族だ、どんな力を持っていても敵の力はいらない、自分たちとは関係ないと、誤解したのか。もし関わったら面倒なことになると思ったのか。

だからなのか、悪霊に取りつかれた二人と町の人々は、28節と34節で、ほぼ同じ書き方で描かれるのです。「悪霊に取りつかれた二人がイエス様に出会った、墓場から出てきて」「町中の者がイエス様との出会いのため出てきた」。町中の人々まで悪霊に支配され、ゾンビがぞろぞろ不気味に出てくるような描き方が敢えて選ばれたのなら、この人々も同じように、私たちとキリストの間に、何の関係があるか、と思ったのでしょうか。

何の関係があるのか。神様が、創られたすべてを、神様としてご支配なさる権威と力の関係がある。でも暴力的にではないから、拒まれるし、十字架で殺されさえする。その神の子が、拒む人々を背負われるのです。あなたのためになら代わりに死んでもいいと受け入れて、罪も無理解も誤解も憎しみも、愚かさも狂気も絶望も呪いも、死も滅びも何もかもを引き受けて、すべて背負って償い赦す力が、私たちのために人となられた神の子、イエス様と私たちの間にはある!その神様と出会うのです。

今日から受難週が始まります。金曜日には使徒信条で告白したローマ総督「ポンテオ・ピラトのもとで」神の子は「十字架につけられ、死んで葬られ」ます。ピラトは、イエス様は単に憎まれているだけと知ってたので釈放したかったのです。でも皆は「十字架につけろ」と叫び続ける。そしたら騒動が起きて自分に面倒なことになるからと、群衆の前で自分の手を洗い「この人の血について私には責任がない、お前たちの問題だ」と人々の自己責任にして、イエス様のことは関わりたくないと責任放棄する。それを「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」と、命を守る正義を、自分は関係ないと人のせいにして責任を負わない人間のもとでキリストは苦しみを受けたと告白する。自分を守り、人のせいにして、神様のせいにして、自分には関係ないと、人としての責任を拒む罪人の全存在を、だけどわたしは拒まないで引き受けると人となられた神様が、全存在をかけて苦しんで身代わりに死なれて私たちと関わって下さったから、だからキリストの死によって私たちは救われるのです。

神様が、あなたとわたしは関係があると、命がけで関わって下さっている。その神様と私たちの関係を指し示す愛の徴である十字架のもとで、苦しむほど真実なキリストを信頼し、その救いに身を委ねて良いのです。