24/3/10受難節第四主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書8章18-22節、エゼキエル書2章7-10節
「委ねられるから従える」
先生。この呼び方、名前が出て来ん時に助かります。あ……先生(笑)。でも後でイエス様は、先生と呼ばれよったら高ぶるき、いかんと言われました(23:8)。無論、言葉狩りではなく、態度の問題です。
イエス様を「主よ」でなく、先生と呼んだ律法学者の態度に、言わば立派な先生に立派に従えば救われるという誤解を見られたのでしょうか。頑張ったら救われるという上昇志向型の、自己実現の救いのイメージ。
この人のために、主はご自分を「人の子は」と呼んで、ご自分が誰であられて、どんな救いの権威をお持ちなのかを明らかにされます。
本来は、人となられた神様「神の子」と言うのが信仰告白の言葉です。が、その呼び名は、下の29節で悪霊が呼びかける言葉です。荒野の誘惑でもサタンが「神の子なら」と挑発する言葉です(4:3,6)。やがて信仰告白としても出てきますが(16:16)、十字架の場面では嘲りの言葉です。
人となられ、本当に人として来られた神様とは、どういう神様なのか。人の罪と裁きを十字架で負い、死なれる、低い弱い神様です。その低さ弱さを強調して「人の子」と主は言われます。幼子の時からエジプトに逃げなくてはならず、人の苦難を負い、すべての人の罪と汚れ、痛みと悲しみを負われる人の子が、私たちを、その罪と死と滅びから救われる、ご自分が身代わりに裁かれて救われる、十字架の神様だからです。
それがわからないと、神様ながやろ!と人は誤解しやすい。でも主は上昇志向の人間が好む類の上からの正義の裁きはなさいません。むしろ完全な裁きを引き受けて陰府に降り、底辺から罪人を担い、心の貧しい人々を救い出す憐れみのご支配の権威を父から、はいと受けて死なれる人の子です。偉い先生ではない。何かイエス様から学ぶなら、共に生きるために低くなる神様の憐れみを学ぶ。「わたしは柔和で謙遜な(低い)者だから…わたしから学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(11:29、23:12)。それが主にお従いして得られる休みです。
空の鳥は、天の父が養われるから(6:26)、父のもとで休める巣もある。では人の子が父から受けたのは何か。鳥たちが木の上で翼を休める如く、人が十字架で背負われ、天の父の子としての命を回復するために、自分を捨てて死ぬこと。それが人の子の召し、父の救いの実現ならばこそ、人の子であられる主に従う命は「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(16:24)と言われた憐れみ深い主に、低い主に、はいとお従いする命なのです。
これは高ぶるペトロに、わたしの後ろに退けサタン、と命じた有名な場面での御言葉ですが、その前に、主の弟子の心構えを教えられた場面でも同じことを主は言われます「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしに相応しくない」と。そしてその直前に「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしに相応しくない」(10:37)と、今日と似た、つまずきの言葉が出てきます。聖書の、どのつまずきも、神様への誤解、自分への誤解が原因なのですが、ここでは人間と神様の「先ず」の違いが、何で?酷いと思いやすい原因として強調されます。
既に主は、先の鳥と同じ御言葉で「何よりも先ず、天の父のご支配と正義を求めなさい」と言われました(6:33)。先ず。優先の問題。一番目のボタンを掛け違えると全部ズレていく。「わたしに相応しくない」とは主との関係がズレちゅう、主従関係がおかしいろうと問われる言葉です。
人は好きなこと、好きな人を優先したい。家族や友人との関係。自分。全ての場面で何を、誰を、一番に選ぶか。主は、救いのご支配を一番にしなさいと、イエス様を「主よ」と呼ぶ弟子に言われるのです。わたしを「主よ」と呼ぶあなたの優先は、主を主とする関係だ、そうだろうと、弟子の十字架を共に負われる主が、そしてその父親の死をも引き受けて死にに来られた主が「わたしに従いなさい」と求められるのです。
それはここで一番の問題が、葬りでなく、死だからです。聖書の最初から、死は、罪の裁きとして教えられます。罪が関係を壊すから、その裁きである死も、関係の終わりです。呼んでも返事はない。なら神様が呼ばれても返事をしない人はどうか。その死のもとにいる人間のことを、主は死者と呼ばれ、その死者のため先ず何を求めるかを問われるのです。礼を尽くし葬りを果たしても、罪の裁きは葬れません。だからすべての罪と死を背負われる十字架の神様が先ず必要なのです!罪を完全に償い赦しに来られた主こそが先ず必要なのです。この弟子の父親の死にも、主の死によって!天の父のご支配が及ぶからです。この父親が、もし5秒生き返れたら、子よ、先ずイエス様にお仕えしろと言うでしょう。主の死による命こそが、その父親に、すべての人に、一番必要だからです。
そのために来られた主のもとに、この弟子は来た。人の子を主とする関係、死に至るまで謙られた主に、先ずお従いする関係の義しさの中で、父母を敬う関係も天の父の光に照らされます。人に一番必要な十字架の主をくださった父に、だからお委ねでき従える。それが弟子の歩みです。