マタイによる福音書8章14-17節、イザヤ書53章「十字架で病を担われる」

24/3/3受難節第三主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書8章14-17節、イザヤ書53章

「十字架で病を担われる」

先に読みましたイザヤ書53章は、旧約の中の福音書と呼ばれるほど、人となられた三位一体の御子、イエス様がどんな救い主であられるかを預言した御言葉です。神様は十字架で私たちを背負われる神様なのだと、まっすぐに預言した。その預言が御言葉の通り「実現した」成就した。つまり、この方が私たちを約束通りに救いに来られた神様なのだと宣言し説得するのが、この御言葉です。

ここには、その十字架の神様のお姿が、更に具体化されて、この神様を信頼するのだと、私たちがどんな神様を信頼するのかが明確にされています。でないと、どうも私たちは神様を誤解しやすい。人間関係でも、誤解したイメージを作って、相手に不満を感じたり、距離を作ったり、あるんじゃないでしょうか。そのイメージを、偶像を作るとも言います。その解消のために必要なのは、やはりコミュニケーションです。聖書も、教会が交わりを重んじるのも、神様を神様として知るため、そしてその神様に死ぬほど愛されている私たちは誰であるのかを知るためにある。

その神様は、神様に逆らう悪霊は追い出しますが、私たちの患いと病は、負われる神様、担われる神様です。

悪霊は、私たちとは別人格なので、出ていけと追い出すのですけど、患いと訳された言葉は、弱さとか、無力、イザヤ書のほうでは痛みとか悲しみと訳し得る言葉です。病も、それを引き起こすウイルスとかは別かもしれませんが、病んでいる体、心、痛み、孤独、それは私たち自身であって、追い出せるものでしょうか。

今日の御言葉は、8章冒頭で重い皮膚病を患った人を清められ、続いて、主の御言葉の権威によって癒しを行われる主のお姿を、改めて、言わば心に焼き付けるようにして語られた、説得の御言葉です。

皮膚病を患った人を、主は担われるのです。その人の痛みを負われるのです。本人からすると、あるいは周りの人からも、そんな痛みや患いは自分の一部ではない、その人の一部ではないと思いたい。でも、その言わば汚い部分だけ取り除いて、その人を抱きしめたり、受け入れたりは、現実のこととしてできない。できないから悲しい。心が痛む。その部分は自分の一部ではないと思っても、現実として、そんな自分が受け入れられない。相手からも受け入れてもらえない。この病がなかったらいいのにと、病ではなくて、我が身を呪う悲しい人間の現実を、神様はご自分の存在そのものの内に引き受けられるのです。患いも痛みも汚れもすべて、わたしはあなたを担うと十字架で担われ、引き受けて、命と存在のすべてを共にして下さる。それが十字架の神様だからです。

以前、ある牧師と食事をしながら自己紹介がてら、互いの身の上話をしました時、実は私は捨て子だったのを両親が引き取って育ててくれたのだとカジュアルな流れで話されて、え、そうながや、そうなんですと、返事をされた彼の表情が少し緊張して笑っておられたのを覚えています。以前から、どうも自分はすぐにカッとなる性格で、コミュニケーションが下手でと、対話をしても心持ち距離を測っておられるのかなと感じていましたが、そうやって緊張しながらもご自分の出自を私と分かち合ってくれたことに、暖かな空間を感じました。この人は自分を受け入れてくれると信頼して下さったのだと、その思いに襟を正しながら、うまく言葉が見つかりませんが、きっと愛おしさを、その牧師に感じました。

誰かを受け入れるということの現実の重み、あるいはそこには人間の弱さや痛み、あるいは汚ささえ関わってくることを、自分のこととして知っている。それは、きっと彼だけではないと思います。すぐにカッとなる性格だと、人を受け入れるというのは大変だと思いますが、その私を神様が担っていて下さるからと、イエス様、ありがとうございます、この私を、ずっとよろしくお願いしますと、お委ねして、そのイエス様の十字架の愛を伝える牧師として生きている。信徒だってそうでしょう。この私を、お願いしますと、信頼できるから、主を礼拝する。そして、主の愛と救いにお仕えするのです。

ペトロの姑が、起き上がって「もてなした」というのは「奉仕した」お仕えしたという言葉です。姑が最初、どんな目で主を見ておったかはわかりませんが、イエス様は最初から深い憐れみの目で見て下さって、触れて下さった。イエス様に距離なんてない。罪の距離も誤解の距離も、命がけの愛で埋めに来られた主が、担って起き上がらせて下さる。それが私の主だ!と知った者は、今度は主にお仕えするようになるのです。

人の目をはばかるように、暗くなって、悪霊につかれた家族を連れて来た大勢の人々を、姑がどんな目で見たかもわかりません。でもきっと、その人々を深い憐れみで見ておられたイエス様を見て、緊張しながらも彼らを受け入れ、共にお仕えしたのだと思うのです。主に担われたから。主が最初に仕えて下さったから。ありがとうございますと、主に仕え、人の弱さ、痛みを、主と共に引き受けて歩む。そこに救いはなるのです。