24/2/25受難節第二主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書8章5-13節、イザヤ書55章8-11節
「力で証しされる救い主」
「これほどの信仰」。直訳をすると「これほど大きな信頼」です。主はこの百人隊長に、ご自身への大きな信頼を見ました。それはイエス様を「主よ」と呼ぶ信頼です。単に癒しの力がこの人にはあると頭で信じているのではない。この方は神様の権威をお持ちだと、イエス様ご自身に大きな信頼を寄せて、あなたを信頼していますと、主に「近づいて来て」、「懇願した」。直訳は「すぐそばで呼びかけた」です。
皆さんも、誰かに強く願う時、その人に近づくと思います。祈りは、どうでしょう。主のそばに近づいて「主よ」と呼びかける。あるいは「父よ」と呼びかけるでしょうか。繰り返しますが、「父」は関係の言葉ですから、父と子の関係の近さで父に向き合うことを、父は我が子たちに求められます。その関係を得るために御子を犠牲にされた父は決して言葉だけ父ではない。その父との信頼関係を、主の祈りは祈るのです。
そして「主よ」という呼びかけも、今日の御言葉で特に大切な関係の言葉です。昔は主従関係と言いました。主君と従者の関係。百人隊長が「私も権威の下にある者ですが」と言ったくだりが、まさに主従関係を現しています。「これをしろと言えば、その通りにします」。すごい怖い隊長やったがでしょうか(笑)。この御言葉を読むと私はそうではないと思うのです。この隊長、脳卒中で本当に死にそうな痛みに苦しんでいる部下のために、イエス様に「主よ!」と、懇願しに近づくのです。ルカが記す同じ物語では、隊長は別の人を遣わして懇願するのですが、もし死にそうな部下が、隊長、行かんとって下さい、隊長が頑張れ、耐えろ、死んだらいかんと命じてくれたら耐えれますけど、遠く離れたら耐えれませんと苦しんでいたら、よう行かんのじゃないでしょうか。でも隊長は、権威の下にあるとはどういうことか、自分自身がそうやって生きている自分の事として知っていたから、主が一言、権威ある御言葉を命じて下さったら、それはなる!と、神様との主従関係の権威の下に生きる主の僕として、彼自身の主!の権威を信頼しておった。だから他の人を遣わすこともできた。それをマタイはギュッと凝縮した語り方で、隊長が「近づいて来た」と表現したのでしょう。すぐ前2節でも重い皮膚病を患う人がイエス様のもとに「近寄り」と、同じ言葉が実は続くのです。苦しみの状況は二人とも違うけど、イエス様のもとに近づいて「主よ」と、主の僕として、主の憐れみの権威に寄りすがる。その二人を決して遠ざける主ではないのだと、それが私たちのために命を投げだしてでも救いを与えに来られた主なる神様なのだと、マタイは強調するのです。
その2節で「御心ならば」と訳されたのは「主よ、あなたが望まれるのなら」です。自分の望みはあるのです。でも「主よ」と呼ぶ関係は、主のお気持ち、主のお考えを信頼する。信頼するからお委ねする。それが、隊長の信頼の呼びかけでもあるのです。懇願と訳しましたが、願わずに「ひどく苦しんでいます」と主の憐れみに信頼して、お委ねしています。「わたしが!行って癒そう」と言われたのは主なのです。私たちの罪を負われ、それを拒まれても負われて死にに来られた主が望まれるのです。
その主に対して隊長は「私はあなたをお迎えできる者ではありません」と言います。拒んだのではありません。むしろ、私こそ拒まれるべき者ですとの、我が身をわきまえた告白です。当時ユダヤ人は異邦人の家に入らなかった。私はその汚れた異邦人ですという背景もあるのですけど、直訳は「私はあなたをお迎えするのに相応しくありません」あるいは「達していません、足りません」という言葉です。自分は相応しくない。けれど主よ、あなたはそんな私たちをも憐れんで下さる、大きな憐れみの神様です、その憐れみの御言葉をくださいと、主を信頼するのです。
その大きな信頼はイスラエルにないと主は言われました。それは再度、右頁上の7章21節以下「主よ主よ」と言う人が天の国に入るのではない。何故か。彼らは自分が天の国に入るのに相応しいと思っているからです。どうかそういう自分を信じる信仰になってくれるなと、イエス様こそ、ご自分の民に懇願して、11節以下の説教を語るのです。御国の子が天の国に入れない。うちの子がうちに入れないのと同じで、そんなバカな話はない。でもそれが罪の闇、関係の断絶なのだと。自分の行いや信仰を見て、自分は救いに相応しい、自分は達していると、父との信頼関係に生きてない。それは自分信仰だと、主は私たちの罪に向き合われます。
皮膚病を患った人も隊長も「主よ主よ」とは言わない。二回言うのは、私に向き合ってくれてないと思って、自分に向かせる言い方です。主は私に向き合ってないと信じ不満になる。だから願いも聴かれないと思う。まるで単なる神のように信じて、主との関係の、主従関係の外の暗闇に自分から出て行って、何でと泣きわめくようになる私たちであればこそ、その闇を主が十字架で負われるのです。我が神、我が神、何故わたしを見捨てられたかと追い出されて、口だけでなく棄てられて救って下さる大きな憐れみの主に、だから、はいと向き合う、信頼の中を歩むのです。