マタイによる福音書8章1-4節、エレミヤ書17章14-15節「関係回復を望まれる主」

24/2/11主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書8章1-4節、エレミヤ書17章14-15節

「関係回復を望まれる主」

御心なら。祈りの中でよく口にする言葉かもしれません。あるいは、お祈りしていますに並ぶ教会用語の一つでもあるでしょうか。ひょっとそれで「御心ならば」と訳したのかもしれませんが、直訳は「あなたが望んで下さるなら」。主に向き合って信頼して語りかける言葉です。信頼するから近づいてきたのです。「主よ」と。この方は神様の権威をお持ちだと、神様に向き合い、ひれ伏してあなたが望んで下さるなら」と。神様を無視しないで、神様のお気持ちを、しかも神様!の望みとして、ひれ伏すほど尊んで「主よ、あなたが望んで下さるなら」と向き合う。

それと対照的なのが右の頁7章21節です。主が「わたしに向かって『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るのではない。わたしの天の父の御心(望み)を行う者だけが入るのである」と言われた。そして、主よ、と言いながらも自分の行いに頼っていた人に、あなたとわたしの間に、どんな関係があるのかと、天の父が御子を十字架で犠牲にされるほど望まれるのは、父と子の信頼関係ではなかったかと、極めて深刻な事態を強調して教えられました。その信頼、イエス様を「主よ」と呼ぶ信頼関係は、どんな形を取るかを今日の御言葉は具体的に教えるのです。

それは、先の、主よ主よと言いながら、何で私が救われないのかと、自分の望みを押し付ける形ではない。「主よ、あなたが!望んで下さるのでしたら」と、自分の望みより、神様の望みを優先し大切にするのです。神様は十字架で身代わりに死なれてでも、神様と私たちとの信頼関係を破いていた罪を赦して、私たちが父の望みに生きて礼拝する関係を全力で望んでおられる神様です。そのために人となられて来て下さった主に「主よ、あなたが望んで下さるのなら」と向き合う。自分が望んでいるからじゃなくて、あなたが!と。それが、信頼でなくて何でしょうか。何で私が救われないのかと、自分の望みを押し付ける形とは、正反対。それが十字架の神様を信頼する形、信頼関係としての信仰です。

それで、彼は「主よ、あなたが望んで下さるなら、あなたは私を清くすることがおできになります」と、癒すじゃなく「清く」されることを主に望むのです。もともと清い汚いは、生理的な感覚で、例えば汚い水は飲めないけど清い水は飲める。受け入れられるという意味で、神様に受け入れられるようになる、神様に受け入れてもらえる関係に回復することが「清くすること」だと、聖書は教えてきました。が、言葉だけで言われても、まあでも受け入れられるろうと、罪を深刻に受け止める人が少なかったのでしょうか。だから罪の深刻さを旧約のレビ記は深刻な病から教えてきたのかもしれません。この病に感染したら関係から引き離され隔離される。けれど癒されたら、モーセの律法に従って、関係が回復される。健康の回復より、関係が回復されることが、罪による関係の破れ、関係の拒絶を、病によって譬えた目的、ゴールだからです。

関係から疎外される。小学校の時、短い間だったと記憶していますが、野口菌と言われて疎外された経験があります。小学生でも人間の尊厳が破られたことが心でわかる。人間。人の間と書く。もとは世間と同じ、人が住む共同体を意味したようですが、そのに人間を人間たらしめる尊厳の在りか、つまり関係がある。人間の尊厳は、自分の中にはない。むしろ人の中にあるのは汚れだと、主は後で言われます(15:18)。主よ主よと言うけれど自分自分で、信頼の関係、間に共に住まわれる神様の尊厳を汚す罪が、人間も汚す。相手を拒絶し関係を壊す罪。それが到底、受け入れられない罪であることは子供でも、自分がそうされたらわかるのです。なのに相手が望むことや神様が望まれることより、自分の望みを押し付けてしまう汚れがあって、その自分中心を受け入れてくれない神様が悪いとさえ考える深刻な汚れの中で、自分の中で滅びる人間。

その私たちだからこそ、神様が望まれたのです。人間が、その名を愛と呼ばれる三位一体の神様の形に創られた尊厳ある人間として、父と子の信頼関係の中に回復する救いを、御子を身代わりにすることによって、恵み与えようと。罪なき汚れなき御子が、全ての汚れを身に引き受けて、十字架で、父から、汚いあなたを受け入れることはできないと代わりに棄てられてでも、主は、あなたを償う、完全にあなたを受け入れるから、わたしのもとに来なさいと、主ご自身が望まれるのです。

だからイエス様のもとに、この人が近づいてきた時、一緒にいた大勢の群衆が、もし、この人から逃げるように離れたとしても、イエス様はむしろこの人に、手を差し伸べて触れられるのです。全ての汚れを引き受けに来られた主の御前で、あなたはもう汚れてないと。だから直訳で主はこう言われたのです「わたしが望んでいる!清くなれ」。

主が望んでおられます。全ての汚れを引き受けに来られた十字架の主、神様が、全ての人に「清くなれ」と望んでおられるから、私たちも主の御前で、相手を受け入れるのです。何度もひれ伏して主を礼拝しながら、我らの父が望まれる関係を、十字架の主が触れて清めて下さるからです。