マタイによる福音書7章21-23節、エレミヤ書9章22-23節「父の御心は信頼関係!」

24/1/21主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書7章21-23節、エレミヤ書9章22-23節

「父の御心は信頼関係!」

「知る」。この人はわたしと一つだと関係で知る。主が言われた「知る」という言葉は、聖書で、夫婦の関係、また神様との関係を表す、言わば専門用語。「一つに結ばれた関係にある」という救いの言葉です。例えばヨセフはその子が生まれるまでマリアを「知ることはなかった」(1:25)。「関係することはなかった」と訳したのは事実その通りで、それほどの結びつきを持つ関係が「知る」です。頭だけの知識で、そもそも知っていると言うのが、おこがましいと言えば、わかりよいでしょうか。

愛と信頼が必要である人格関係においては尚のこと。愛と信頼の故に離れがたい離してはならない関係を、聖書は「わたしは主、あなたの神」と呼ばれる神様と「あなた」の関係として告げるのです。

その関係に割り込んでくる暴力、割り込ませる不誠実が、姦淫です。関係を殺し、盗み、滅ぼすから、十戒で並んで命じられます。それが「不法」です。つまり「わたしは主、あなたの神」だから、そのあなたがこんな生き方はできんだろうと、父を私の父として知る子供たちに、心から父が求められる「父の御心」を、不法は知らない。不法は、父の愛と信頼の関係の法とは、別の法則で人を動かします。それに動かされ行動するのが「主よ主よ」と言うけど、行動もするけど、主を知る関係を持ってない、前の15節で「偽預言者」と呼ばれた人々。神様との信頼関係に動かされるのでない、別の法則に従う人々。それは神様を、を、関係によって知らないからじゃないかと、主は問われるのです。

ここに問われるのは、口だけはダメ、行いが!という問題ではありません。偽預言者は、自分の行いを強調するのです。しかも正しく見える行いです。何故なら、その行いの実も羊の皮をかぶって、例えば御名によって説教し、牧会し、会堂を建て、献金…。口だけではないのです。でも口で「御名によって」と言う神様を、どんな関係で知っているのか。「あなたの神」という関係を求めて、イエス様によって救いに来られた神様を、はいと知る関係から生まれたのでない自分の行いは、裁きの日、その行いの実から羊の皮が剥がれ落ちて、自分に噛みついてくるのです。

行いと、関係を、切り離すことはできません。17節の「悪い」実とは、食べたら痛みを与える言わば痛んだ実です。食べてみんと、見た目ではわからん時もある。その時は美味しくても、後でお腹を壊す悪は、ある。外見は正しさや愛に見えて、滅びに至る自分の正しさ。だからその滅びを引き受けに来られた十字架の主を、信頼する関係が人を救います。

「御名によって」とは、そんな私たちを救うために自分を捨てられた神様を、私の主と信頼する関係によって「あがめ」証しする行いです。それを自分の行いだと奪い取りながら、あなたの名によってしたと言う。その不法に、主は、わたしはあなたを知らない。どんな関係をわたしと持っているのか?その行いも自分のためではなかったか?これは自分にとって正しいと、自分が自分を正しく裁く、自分の主ではなかったかと問われるのです。

イエス様は既に6章で「知る」という言葉を用いて「右手のすることを左手に知らせてはならない」(6:3)と言われました。自分で自分に報いが返って来る行いを自分に向かってするな。「隠れたことを見ておられる父があなたに報いて下さる」から、自分の行いを!自分が!と自己完結をしてはならない。私は私という、関係にならない自分!なんかで完結させる不法から身を離して、自分を捨てて、わたしのもとに来なさい、わたしがあなたを救う、あなたの神だと、ご自分を捨てて招かれる主に、はいと信頼して生きる。そしたら、むしろ、自分の行いに対して、私はできてないと思うのじゃないでしょうか。主が行って下さったと数える恵みが増えて、自分の行いとしてカウントする盗みは減っていくのです。だから「かの日」の裁きを描く25章で、え?いつ私がそんな行いを?と驚く羊たちが(25:37ff)父の御国に入るんだと、主は保証なさるのです。

そこに偽善の「御名によって」とは強烈に対照的な、光と影の逆転が起こります。自分!は光じゃない。だから主の御言葉に、はいと従おうと行ったのに、うまく行えない、自分はできてない暗い影が見える。主が私を担って下さっている愛で、愛したい、仕えたいですと求めるけど、うまく仕えることができない。自分はした!で自己完結できんから悩む。愛を行えれば誰でもいいというのではない。この目の前の人と愛と信頼の関係に生きることを、父が望んでおられるから、その関係を主が担い、執り成して下さっていると信頼するから、この人にお仕えしたいと求めるのに、ぎこちない優しさになったり、愛のない言葉が口から出て後悔することも、私たち、罪人だから、あるに違いないのです。

だから主が来て下さいました。罪を赦して、ご自分を捨てられた愛で私たちを覆われて、わたしはあなたを知っている、ぎこちない愛でも、自分はできてないと思っても、あなたはわたしの救いの実を結ぶ父の子、わたしのものだと喜んで下さる。その御名により罪人は救われるのです。