マタイによる福音書7章15-20節、エレミヤ書7章1-11節「恵みの言に養われ歩む」

24/1/7新年主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書7章15-20節、エレミヤ書7章1-11節

「恵みの言に養われ歩む」

羊の皮をかぶった狼より、日本では猫かぶった人に会うほうが多いでしょうか(笑)。まあ猫を脱いでも羊なら良いのですが、もし狼だったら。つまり人を救うように見えて本当は救えない言葉を語り始めたら。でも主の神殿とか信じろとか大丈夫とか、言葉だけでは狼を見分けにくい人もいるかもしれません。すぐ前の御言葉からの、つながりで分かるのは、多くの人が信じて聞く類の、信じるとか、この門くぐって礼拝しに来ているから大丈夫とか、自分はこれをしているから自動的に大丈夫だろうと信じたい、そう信じたい自分を信じやと広々とした道に導く偽の預言が私たちのそばに確かにある。そういう事実です。次の御言葉に続きますが、それを信じて語っている人は、でも自分自身その偽りに気づいてない。自分は正しいことを信じて行っていると思っていて、主よ、私は頑張ってやってきたやないですかと、自分の行いを持ち出すのです。

そこで持ち出される行いの実を、けれど主は「悪い」と言われます。これは前の頁7章11節で主が言われた言葉「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には善い物を与えることを知っている」、の「悪い」から続く言葉です。自分と関係がなかったら、何で与えないかんと恵みに躊躇するような悪い自分中心の自分であっても、自分と切っても切れない親子関係にある我が子には善い物を与えることは、当たり前じゃかと知っている。なら、その切っても切れない親子関係で、あなたを愛し支え求めておられるあなたの天の父との関係に生きる行いを、自分の心でなく、父のお気持ちを思い生きる関係の実を、あなたは結んでいるか。それが偽預言者を見分ける鍵だと主は言われるのです。

偽預言者という職業につく人はおりません。滅びに通じる広い門から敢えて入る人がおらんのと同じです。自分では正しいと信じているから、例えば自分を信じろという言葉にも自信がみなぎって、言うのでしょう。でもそうして自分は正しいと信じている自分という狼に人生を奪い取られてしまう。「貪欲な狼」の直訳は「奪い取る狼」です。自分の内側の狼に、御言葉の種を、父のお気持ちとご支配を奪い取られてしまう。その私たちの罪をこそ十字架で奪い取るように私たちを救いに来られた御子を!父はくださった、その我らの父との信頼の親子関係を、だから奪わせてはならない。「警戒しなさい」と言われるのです。自分が狼かどうか分からないほど悪い私たちの罪の本性をご存じだからこそ、気をつけなさい、その結ぶ実によって、見分けなさいと言われるのです。

改めてですが、罪の本性は、関係を切り離すことです。と私たちを関係ない者として切り離し、あるいはそういう〈神〉との偽善の関係をでっち上げて切り離す。それが偽預言者の偽りです。でもそれが人との関係にも具体的に現れる。私は私、人は人という我らの父のお気持ちが実らない偽善の関係が人生に実って、我らの父が求められる「我ら」が共に生きる関係を奪い取り強奪する。その結果を私たちは知らないはずはないのです。いやむしろ自分の罪として、この悲劇を知っているなら、その罪から我が子を救い出すために、父が御子によって与えて下さった救いの善さも、きっと知っている。知って、その父のお気持ちを、はいと求めて、父との関係に結ばれて生きる、父に救われた善い木として、父のお気持ちを求めて生きる、良い実を結ばないはずはない。もしその父のお気持ちを、まるで知らないかのように、奪い取られて生きることがあったとしても、父が知っておられます。だから御子を与えたのだと。だから御子に結ばれて救われるのだと。あなたはその御子を信頼し御子に結ばれて、わたしの子となった、我が子ではないのかと。

その父との関係を、主は「義」と呼んで、父の義しさと呼んで、義に飢え渇く者は幸いだ、満たされるから、この義しさを求めなさい、与えられるからと約束して下さったのです(5:6、6:33)。

そしてこの恵みを、口だけの救いや信仰ではない、勝手に作った偽りではない、私たちが父との関係に生きる救いの恵みを、先の信仰告白は、こう告白したのです「神は恵みをもって私たちを選び、ただキリストを信じる信仰によって私たちの罪を赦して義とされます。この変わらない恵みの内で聖霊は私たちを潔めて義の実を結ばせ、その働きを完成されます」。我らの父が、我らの父として、私たちの罪がどんなにひどくてもあきらめないで、我らの父としての義の故に御子を私たちの償いとされ、あなたは我が子だと、すべて赦して受け入れてくださる。そして父の子として、父のお気持ちに、はいと生きる義の実を、私たちとキリストを一つに結ばれる聖霊様によって、一緒に結んでくださる。自己責任にはしない。それが父の父として我が子を求め生きる関係の義しさです。

その父の御心に生きる善い木の「善い」とは「存在そのものから判断される善さ」という言葉です。父の子とされた存在そのもの。羊の皮をかぶった狼と逆に、見た目は悪いかもしれない。罪も犯す。でも赦して下さる父を、我が父と信頼して実を結ぶ。その実を父は愛されるのです。