マタイによる福音書7章7-12節、レビ記19章17-18節「天の父の家族の生き方」

23/12/17待降節第三主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書7章7-12節、レビ記19章17-18節

「天の父の家族の生き方」

御子は何のために来られて、だから私たちは、どんな良き物を求めて生きるのか。これもアドベント、キリストの到来を告げる御言葉です。「律法と預言者」とは、キリストの到来を預言した旧約の御言葉ですが、今日の御言葉は先に主が出された問題の、回収とも言える言葉です。こう言われたのです「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためでなく満たすために来たのだ」(5:17)。つまりイエス様が罪人を償い赦して救いを満たすために来られたのなら、もう例えば十戒は守らいでもえいがですよね?主は言われます。いや、だから共に!父の愛の生き方を守り、父の家族の命を満たしていこう。相手から望むことを自分から与える愛で、家族の命を共に満たそうと。

その愛が難しいと下を向く私たちならばこそ、慰め説得されるのです。求めなさい。そうすれば与えられる。だって父は、あなたの父だからと。

この説得の仕方も、繰り返し語られてきた主の説得です。6章8節で、直訳すると「あなたがたの父は、あなたがたが父に求める前に、あなたがたの持つ必要が何かを知っておられるから」。私たちが求める前から!それがないとあなたの命が満たされない!と知っておられるから御子をくださった父です。人の命が死んで終わらず罪で終わらぬために。親は我が子が罪を犯しても見捨てず、むしろ赦しが満たされることを求めるように、それがこの子の必要だと知っているように!それが今日の11節「まして」の説得です。わかりやすく補足して言うなら「(あなたが求める前からあなたの必要をご存じである)あなたがたの天の父はまして尚更!父に求める者たちに良き物をくださる」。そうじゃないかと。

まして尚更!という説得も、父は空の鳥を養い、野の花を美しく装い、ましてあなたがたのことは尚更と重ねられてきての、まして尚更!です。つまり説得を全て集中させ!これほどあなたの必要を知りあなたを愛される父の良き物!を信頼して、これを求め生きよ!そう言われるのです。クリスマスの御子がこのために来られたド真ん中の目的も、ここにある。それは私たちがこの天の父に、はいと信頼して、赦され受け入れられた、父の家族として、父の救いの御心に、主と生きること。これです。

では私はそこまで父に知られ愛されている私だと知って生きているか。これが今日の御言葉の急所です。私は人生に何を求め、何を探し求めて、どんな幸いな生活に入りたいと門を叩いて生活しているか。それが問われるのです。誰かと信頼関係に生きる時、その信頼は求めの中に見えてくる。例えば結婚して妻との信頼関係に入ってからも、私が自分だけのことを求めて、ここに入らないでと門を閉ざすなら、別々の国、支配に分かれて、いくら探してもそこに二人の国は見つからない。これは譬えで言っただけではありません。父が御子を来たらせて下さり、キリストが赦し背負って導いてご支配くださるから、もう来始めているご支配、父の家族として生きられる生活がある。そのご支配は、でもイエス様の名によって祈り求めて、あなたのご支配が必要なのです!と探す時に、与えられ、見つかる。父の家族として愛に生きるためのご支配を、父よ、と呼んで、探し求めるなら、その愛の生活は与えられるからです。

そのために、ご自分を投げ捨てて来て下さった御子が、幸生、あなたが例えば妻に求める愛、慰め、思いやりを、自分から相手に与えることを一緒に父に求めようと主は言われるのです。そこに父の恵みのご支配の門が開き、主と共に生きる幸いが見つかるからです。

でもそれが自分には辛く、何で自分からと、自分のことばかり思う時、主が悪い者と呼ばれる態度の時にこそ、人に求めることをやめて、父に目を向けるのです。十字架の神様のご支配を求めるのです。開き直りのように思われるかもしれませんが、求めても与えてくれない人のことを裁いて腐り、でも自分も人に惜しまず与えないから、何で私だけと腐る。それより、そんな私たちが本当に愛なき罪の支配に死んで腐ってしまうことのないように、十字架でその私たちの悪も汚れもふて腐れも、全て抱きかかえられ背負われて、わたしがそのあなたの命を、父の子としての命に満たすから、一緒に父の愛のご支配に生きようと、御子が私たちの主として来て下さったから、愚かにも、その恵みのご支配を信頼して生きれば良い。祈って初めて見つける神様の愛の世界があるからです。

イエス様は「誰でも求める者は」と言われました。頑張って求める者とか清い心で求める者とかじゃない。愚かでいい。泣きながらでもいい。お父さんの子どもとして本当に生きたいと求める子どもに、どんな父親が、これもあれもやってないじゃかと退けるだろうか。まして!御子を与えられ、十字架で私たちの罪の償いとされてでも、あなたを求められ、探し求められ、あなたはキリストによって赦され完全に受け入れられて満たされるからと知っておられる、あなた!の父のご支配を、あなたは信頼して生きて良い。それが救いだ、わたしはそのために来た!と主は言われます。その愛のご支配に生きるのです。命はそこに満ちるのです。