マタイによる福音書7章1-6節、詩編130篇「人を裁く人の頭上には」

23/12/10待降節第二主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書7章1-6節、詩編130篇

「人を裁く人の頭上には」

この御言葉を読み、これは待降節:アドベントの御言葉だと思いました。到来するというラテン語です。先の使徒信条でもキリストのアドベントをこう告白します。「そこから来られて生きている者と死んでいる者とを裁かれます」。すべての人のすべての罪をキリストが裁かれる。その裁きから、だから私たちが救われるために、神様が代わりに裁かれて正義が満たされ!罪が償われ人が贖われ救われるために、御子が人となられた。私たちを償い死ぬために来て下さった。アドベントして下さった。その慰めの光を教会は灯して、私たちの罪に勝利され、神様としてすべての罪を裁きに来られる主のアドベントを、自らの罪を悔い改め、世の罪を執り成しながら、そのために来られたキリストの到来を待ち望みます。罪に勝利されたキリストの到来を、主に顔を上げて待ち望むのです。

そのキリストが言われるのです。裁くより償い赦すことを、代わりに死んででも赦して共に生きることを求められる神様がおっしゃるのです。裁いてはならない。そうじゃないか。愛する者を裁きたくはないだろう。裁かれてほしくはないだろう。違うだろうか。何故、裁くのか。正義を問うからか。誰の何の正義か。愛の正義ではないのか。全ては愛の問題ではなかったかと。目の中の丸太と訳されたのは家の重みを支える横木、大きな梁のことです。人の重みを支える梁のような愛が、その裁きには見えているか。目の中に梁が突き刺さっているのなら、愛が見えてないのではないか。愛の見えない正義、愛が問われない罪と裁きは、偽善者の裁きだ。だからあなたには、その梁を先ず自分の目から抜き取って、わたしがあなたを見ている同じ眼差しで人を見るようになってほしいと、十字架の主が求められます。説教題を言わば完成して言えば、人を裁く人の頭上には、十字架の憐れみの裁きが光り続けているのを忘れないで、その光のもとに、先ず!自分の身を置いて、人を愛して生きて欲しい。アドベントの主イエス様が、そう私たちに求められるのです。

ここには豚に真珠という諺になった御言葉も言われます。似合わないという意味ではありません。それが何かがわからなくて踏みにじられるという意味です。神聖なものとは神様に捧げた献げ物の肉のようです。それが裁きの御言葉の中で言われます。十字架で捧げられ裂かれた犠牲の肉を思います。詩編は「犬どもがわたしを取り囲み」(22篇)と、何でキリストが十字架で死ななければならなかったのかが、わからんかった人々に取り囲まれて、お前が神の子なら降りて来い、信じてやるからと笑われた裁きを預言します。人が人に向かって、お前が間違っていると裁く人間の裁きなら、人間は分かるのです。腹が立ったと裁くのです。あいつが悪いと裁くのです。でもその罪も悪も自分を棚に上げる卑怯な醜態も全部、十字架の上に引き上げて、わたしが背負って代わりに死ぬから、父よ、彼らを赦して下さいと、神様が代わりに裁かれて赦す裁きがわからない。そこまで本当に神様であられて唯一神聖で愛であられる神様の十字架の意味が人間にはわからない。何で私が赦されなければ、そして赦さなければならないのかと、むしろキリストが目の敵にされて、十字架が間違っていると踏みにじられてしまう。それでも背負う!必ず裁かれる罪であればこそ、必ず背負う、わたしは主、あなたの神だと、命がけで裁かれる神様が、裁くなと言われる裁きを、だから私たちは軽々に人前に出して裁くことは、もう、よすのです。

むしろ十字架の主に襟を正して愛に向き合う。主に向き合う。それが罪と裁きに義しく向き合う姿勢です。先ず自分が問われる。当時汚れているとされた犬や豚のように、愛のわきまえなき、聖なる十字架の裁きをわきまえてない汚れた態度、考え方、生き方に、自分がなってないか。十字架の裁きのもとでは、むしろ、どうしたらわかってくれるだろうかと苦しむのではないか。裁くことがゴールではない。共に生きること。赦し、赦されて、共に生きることを求められる十字架の神様の憐れみと恵みに生きること。これが何より先ず求める神様の義だからです(6:33)。

これが裁きの基準なる義であればこそ、自分の基準に神の義の仮面をつけて人を裁くのは偽善だと主は言われます。その偽善の嘘の梁を自分の目から先ず抜き取るために、自分の目をキリストの十字架に釘づけにするのです。私を贖い自由にするためご自分を磔にされた主に、私の主、私の神様!と目をはりつける時、イエス様ごめんなさいと裁きがわかる。それ以外の分かり方はありません。でもその時、自分の目から偽善の梁が抜け始めるのです。

そうしたら、キリストの十字架の憐れみのもとで謙遜に、どうやって人の罪に向き合えばよいかも、わきまえ始めます。その問題に愛の問題として向き合えるようになる。その人の罪にも私の罪にも十字架で勝利された、死んで神様の正義を全うされたキリストに、はいとお従いして、裁きによってでなく、愛によって、その人に義しく向き合えるようになるからです。そこにインマヌエルの主が共に働いて下さっているのです。