マタイによる福音書6章31-34節、イザヤ書63章15節-64章4節「クリスマス自身の求め」

23/12/3主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書6章31-34節、イザヤ書63章15節-64章4節

「クリスマス自身の求め」

「何よりも先ず」。つまり、私たちは自分の命の最重要課題は何であると思い、それを果たすために生きているのか。何のために自分は生きているのか、また生きていくのか。私はこれを十代の頃うんと考えました。じゃないと、もったいないと思った。前にも言いましたが、何のために生まれて、何をして生きるのか、答えられないなんて、そんなのは嫌だ。アンパンマンの歌です。本当に嫌だと思った。食べるために働き、働くため学校に行って働いて気づいたら、おじいさんか。じゃあ何のために生きるのか。何を求めて、いや、何を一番に!求めて何よりも先ず」これが私には必要だ!と生きな、何のための命か、わからんなる。その問いにイエス様は答えられます。そうだ、あなたたちは、あなたのために天の父が与えた、かけがえない命の義しさを、そうです、これが私の義しさです、私はこのために生まれてきました、私はこの命の義しさが満たされることが幸せですと、父の子として生きる命の義しさに、はいと生きればよい。そのために必要なすべてを!食べることも着ることも他の一切の必要も、天の父はご存じだから、あなたの天の父のお気持ちとお考えとご計画を信頼して、あなたに与えられた父のオーダーメイドの命を、はいと信頼して生きればよい。だからあなたは「何よりも先ず、父のご支配である御国と、そのご支配に生かされる義しさを求めなさい」。そう約束されるのです。

前の説教で私は教会の兄弟姉妹を見て、自分の命の必要は心配せいでえいがやと学んだと証ししました。アンパンマンの歌をも父は用いられ、私は何よりも先ず父のご支配を求めることを自分の命の至上命題として生きることに、はいと腹を決めました。それは即ち、御子を与えてでも父が私たちに求められる、人々の救いを一番に求めて生きること。教会の至上命題、教会の存在理由そのものに生きることです。既にそうして生きておられる教会の兄弟姉妹たちの生き方に倣いながら、段々と態度や笑い方まで似てきたなと喜びながら、父の子としての義しさに生きる救いの喜びを求めていました。その中で牧者・伝道者になるよう主から召され東京神学大学で学びつつも、父がくださった「自分の命のことで」不安だった、祈り求めていたことに、結婚がありました。一人では牧会できないと思っていました。でも将来の子供を愛する自信がなく、結婚せられんがやないかと悩み、結婚については父にお任せし、祈る以外は何もしませんでした。後に神学校の後輩が夏期伝実習に来て、野口さんは恋愛の隙が0だったと妻に証言したと聴き嬉しく思いましたが、実際は深く悩み、この教会に赴任が決まった時、ある教授に悩みを打ち明けました。愛のない自分が情けなくて涙する私に、で、お相手はいるの?と言われ、思い浮かんだ顔が、愛(妻)でした。父のご支配でしたらと祈りを深め、その後とんとん拍子には進みませんでしたが、後は皆さんご存じの通りです。解釈を丸投げしているわけではなく(笑)、思い悩みながらも、不完全な者でも、人に言えないから言わんだけで自分の汚れを知っていても、私たちに御子をくださった父のご支配を何よりも先ず求める者に、本当に必要なことはすべて一緒に与えられる。その証言をしたのです。本当に(笑)。だから、替えのきかない自分の命を、父の子として生きる義しさを先ず求めて欲しい。そしてこの命に義の実を結ばせて下さる父のご支配を、何よりも一番に求め続けて欲しいのです。

先輩牧師だったか誰だったか、結婚は勘違いしないとできんと言ったのを、今は、含蓄の深い言葉だと(笑)互いの欠けと勘違いを痛みをも交えて思いますが、イエス様は単に父のご支配を求めよと言われただけでなく、父の義を求めよと一緒に言われました。結婚の場合なら、父のご支配の内に選ばれたと信頼するから、その選びに、はいと従う義しい歩みも一番に求めるのです。勘違いをも用いられる父の完全なご支配の義しさに、はいと生き続け、求め続けるのです。

私たち罪人の必要をご存じで、御子をくださった父の憐れみの義しさに生きる。赦しの義しさ、柔和と謙遜の義しさ、自分を捨てる義しさ、コリント一13章の愛の義しさに、忍耐強い義しさに。イエス様、私たちを助けて下さい、あなたの憐れみのご支配をくださいと先ず求めないで、どうして父の義に生きられるでしょう。自分を、まして相手を、自分で支配したいと求めたら、今日も明日も苦労する他ない。支配できんのです。なのに支配したい。そして思い悩む。罪があり、愛に欠け、何より父の求められる義に欠けている私たちの必要を、だから父が深く憐れんで、命を自分で支配しようとして無駄に捨てるな、あなたは捨てられてはならない替えのきかない、わたしの愛する子じゃないかと、その代わりにご自分の命を罪の償いとして棄てられた御子を、私たちの救い主としてくださった。そのキリストの約束なのです。だから父のご支配と義しさを先ず求めて、委ねて歩めば良い。今日も明日も父がご支配して下さる。わたしはそのために来たからと、我らと共にます主が、約束して下さっているのです。