マタイによる福音書6章25-30節、ヨナ書4章4-11節「信頼の病を癒される主」

23/11/26主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書6章25-30節、ヨナ書4章4-11節

「信頼の病を癒される主」

だから、自分の命の営みを、どうやって生きていけばよいのかと心配しなくてよい。あなたの天の父の深い憐れみに、あなたの心を配るなら、それはわかるだろうと主はおっしゃいます。父は鳥の命よりも、もっとあなたを気にかけておられる、あなたの天の父なのだからと。

確かに私は鳥を見るより、教会の兄弟姉妹を見て、自分が食べていく生活が、どうやって守られるかという心配は、いらんがやと学びました。天に召された金田さんが、月定献金を献げられた礼拝の帰りに、ひや~ひと月どうやって生活していこうと笑っておられたのを思い出します。鈴木先生たちも、この会堂が建って2年少し住まれただけで、後はずっと借家住まい。二階にお住いだった時は南側一面の窓にブラインドがなく、夏、おじゃまして上がったら、部屋の中でパラソルさして食べよって(笑)、私らにはこの生活は贅沢過ぎと笑ってました。借家でも同じように笑いながら、生かされて本当に感謝ですと、きっと鳥や野の花より、ずっと神様に感謝して、どこでも感謝して生活しておられました。

ここでイエス様は衣食住の住は言われませんが、「自分の命のことで」不安に思うことの具体例として、食べ物と着る物を言われているので、現代の日本に生きる私の生活の不安は何だろうかと考えてもよいのです。何が自分の生活にないと不安か。住居の不安、自動車が乗れんなった後の移動手段もでしょうか。インターネット環境もそうかもしれません。例えば県外に進学した先での生活を思う時、何が心配になるか。そこに御言葉が真っ直ぐ語られ、兄弟姉妹が、はいとキリストを愛する教会があるかと、先ず心配するでしょうか。欲しいものが何もかもあっても、教会生活がなかったら、自分の命が満たされないと思うかどうか。「自分の命」を、幸いな命として支え保証するのは何であると思うかで、人はそれを求めて生きるようになる。食べ物も、着る物もだと言われます。もし自分の服がみっともなく思うなら、人の目が気になるからでしょう。

この御言葉が置かれた6章冒頭は「人に見てもらうために人前で自分の義を行わないように気をつけなさい」です。そして具体的に、人前での施し、人前での祈り、そして同じ頁16節で人前での断食について、主は、そのすべてを、あなたは、人目には隠れたことを見ておられる、あなたの父に見てもらいなさい。父を気にしなさい。父が!どんなにあなたのことを気にしておられるかと、徹底して父の思い!を伝えられました。人の目を気にするというのは、それは自分の目も含まれていますから、つまり神様の目を気にしなさい。神様のお気持ちを考えたことがあるか。いや、父!のお気持ちをと主は言われる。本当に何度も申しますが、父は子がおらんと父ではない。その父の子は、あなたのことじゃないのか。自分の命を、あなたは何だと思って生活しているのか。あなたの命は、父のもとでの命以外に、どんな命があるのか。あなたの父は、その命を我が子の価値ある命として以外には、一秒たりとも見ておられないからあなたの父の前で、父としての眼差しを信頼して、父の子として生きてごらん。着る物らあではどうにもならん、あなた!という命の美しさを、きっとあなたも知るようになる。野の花を見てごらん。あなたの美しさはそれ以上じゃないのかと、その私たちの罪の償いとして私たちを救うために、死にに来られた神様の命がけの説得をされるのです

あなたの命を、今までもこれからの生活も、父は鳥を養う以上に養い支え導いて下さっている。その父の真実を、わざわざ鳥を見に行かなくても、ここで、私たちは兄弟姉妹たちを互いによく見て確認し合うことができるのです。5年前、寺田兄が清和就職の面接の時、この教会の礼拝に出席されて、自分はここで生活できると思い、決められたと聴いた時、本当に嬉しく思いました。教会員が増えると思ったからではありません。父を信頼する信頼の大きさを見て、ああ嬉しいと思った。父の養いをそこに見て、その愛に信頼している我が子の命を父が喜んでおられると、その喜びを自分の事のように、皆も家族として感じられたと思うのです。

信仰が薄いと訳された言葉は「信頼が小さい」という言葉です。旧約で出エジプトを果たした民が、毎日マナを集めて生活した時、安息日はマナが降らない。その分、前日に二倍与えるから、集めに行ってもないよと命じられました。なのに何人かが集めに行った(出エジプト16:27)。その人々のことを後のユダヤ人たちは「信仰が小さい」と呼んだ。その言葉を主は用いられていると言われます。信じてない訳じゃない。でも小さくて、マナや自分への信頼が大きくなったら、父への信頼が小さくなる。でもその人々を見捨てることがおできにならない大きな憐れみと赦しと救いとを、御子が担がれて来て下さった。そして、見よ、あなたの父の愛はこんなにも大きい、あなたは神様が代わりに死ぬほど価値の大きな存在じゃないかと約束し説得して、だから大きな信頼で父の前に生きよと求められるのです。その救いの大きさに、はい、と飛び込んで生きればよい。そこに御子の、天からの飛び込みも満たされるからです。