マタイによる福音書6章14-15節、詩編38篇14-23節「過ちと言ってくださる」

23/10/22主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書6章14-15節、詩編38篇14-23節

「過ちと言ってくださる」

祈りは求めです。そして求めは、私たちがどのように生きたいかを、どんな生き方をしたいかを、大変現実的に映し出します。

このことは、主の祈りを私たちが祈ることによって生きるよう求めておられる神様にも同じように当てはまります。三位一体の神様はつまり私たちとどのように生きたいと求めておられるのか、です。

主が祈りを教えてくださった時、9節で「だから、こう祈りなさい」と、何故!このように祈るのかを先ず教えてくださっていました。何故か。それは我らの天の父、神様であられる父が、いつも私たちに、我らの父として向き合っていてくださる父だから。我らが我らとして生きるための必要にも、常に向き合ってくださっている父だから。だから父を信頼して、このように祈り求めなさい、そしてその祈りの通りに生きることを求めて生きてごらん、あなたが求める父との信頼の歩みに、父は常に父として向き合っておられるからと、主は、この祈りを教えてくださり、今も導いてくださっている。その上での、今日の御言葉です。

その冒頭には実は「何故なら」という言葉があります。主の祈りは、サンドイッチ形式で、先ず、信頼できる父なのだからと励まされた上で、主の祈りが教えられた。更にその父との信頼の歩みは、まったくもって現実的な救いの歩みであることを「何故なら」と現実と突き合わさせて、祈りを嘘の祈りにさせんのです。上の5節で言えば、主の祈りを、偽善者のように祈らせないで、むしろ私たちを、私たちの生きる現実に改めて向き合わせることで、私たちがどのように生きることを、父が!求めておられるかに、向き合わせられるのです。

私たちの現実。それは罪で関係が破れ苦しむ現実です。その罪を主が十字架で負われて救ってくださる。その救いを、例えば救いの理屈や、ああ、心が救われましたという単なる心の救いに、言わば逃避させないためとも言えるでしょう。むしろ十字架の痛みの現実に、赦しの現実に向き合わせるのです。私たちの罪に、それでも神様が向き合い続けられる愛の現実に向き合わないでは、真実に祈れないのが主の祈りだから。現実の赦しの痛み、愛の痛みに向き合わないでは、祈りも生き方も信仰も偽善になってしまいやすい私たちの弱さ、悪の誘惑を、実際の痛みと共にご存じの主イエス様の、ご配慮ゆえの今日の御言葉です。

言い換えると主の祈りが、ともすると機械的に唱えられやすいように、私たちには、ともすると機械的に生きてしまいやすい弱さがあるのです。父よと向き合わなくても、祈りの言葉を唱えたら自動的に祈ったことになっているとか、礼拝に出たら礼拝したことに、赦しますと祈ったら、赦したことになっているという風に。これをしたら自動的に機械的に、それはなされている、それを自分はしたと、言わば機械やロボットが、そのプログラムにより機械的に動き、まず間違いがないように。自分はやるべきことをやったと、自分では本当に思っていたとしても、です。もし、その自分が、でもこの人には向き合いたくない、向き合うと嫌な気分で、ストレスで、あるいは向き合うと考えるのさえ嫌、避けたいと思う人がいる。それはその人のせいだと裁く姿勢で、自分の心は、その人に対して構えていると気づかされるなら、です。それはその私たちのために、父がどんな痛みの内に私たちに向き合っておられるかと、主がここで言われている神様のお働きがあるからです。ヨハネ福音書がこう告げる聖霊様のお働きです「わたしが(父のもとに)行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」(16:7-8)。

人を赦すことは、機械的にはできないからです。もし、できるなら、こんな苦しい世界にはなってない。この罪の世界では、罪を犯して赦されなければならない側より、赦す側が苦しむことが多いのじゃないか。自分のしたことをわかっているのか、わかってないのなら、赦して何が変わるのか、自分が損をするだけじゃないのかと、もし思ったら、赦すことに向き合うことさえ苦しくて、だから、相手が悪いのだと機械的に裁いて向き合うことから逃げたいと思うのは、弱さ故の当たり前だとも思うのです。関わると苦しいからです。でも、その苦しみから、神様の赦しのお気持ちに向き合える。神様の救いに出会うのです。これをしたから赦されるとか救われると神様の痛みを無視して機械的に思うことが、どれほど神様を否定することになるか、罪を赦すということは、そんな機械的なことでは決してありえないと、赦す苦しみから、神様がどんお方であるかに出会うからです。救いのため、どれだけの犠牲を神様は支払わなければならなかったかと、神様は、それでも私たちを赦すために、犠牲を払われた神様であることを、痛む心で知ることで、主の祈りを、自分の存在をかけて祈るようになる。機械的にはでなく、人と向き合い、神様と向き合って生きられるように変えられます。そうして、赦しますと祈る重みを、赦しに生きる真実を、主と共に生きてゆけるのです。