マタイによる福音書6章12節、詩編103篇6-13節「私自身赦されないなら」

23/10/1主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書6章12節、詩編103篇6-13節

「私自身赦されないなら」

赦しが自分にとって切実な大切なこととなるのは、相手を赦す時です。十字架で私を負って下さった主の前に立って、自分に罪を犯した相手を、キリストの御前に立って、はいと赦す時、赦しが自分のことになる。

ことわざの「人の振り見て我が振り直せ」とも似ています。自分の罪、赦しの必要が、頭だけの理解になってるんじゃないかと普段、思っても、人から罪を犯されたら、嫌な気持ち、悲しみや怒りが体から出て、その罪を犯された自分の気持ちを通してです。なら私が罪を犯す時、天の父はどんなお気持ちなのかが、心でわかる。そして、我が振りを直せる。父よ、ごめんなさい、赦して下さいと祈れるのです。

私たちの罪による苦しみを、父は、お前のせいだと責めないからです。むしろ十字架で背負ってでも、あなたを赦す。怒るより、責めるより、あなたと幸せに生きたい。互いに良かったねと祝福に生きたいじゃないかと、赦して共に生きることを選ばれた「我らの父」なのです。

だからその幸せに、イエス様の十字架の赦しのもとで、共に歩ませて下さいと祈る。父よ、我らを共に憐れみたまえ!それがこの祈りです。

そのため必要なのが、共に生きるため赦すこと、赦されることです。でないと共に生きられない。例えば相手を受け入れる対話でなく、自分の意見だけ言う話が不毛なように、赦さない、そして赦されないなら、同じ所で生存はしていても、「我ら」として生きているでしょうか。

人間相手なら、別にかまん、自分!はそれでえいと思うかもしれない。相手も、知るかと思って、関係が破れたままなのは普通なのでしょうか。

でも罪の相手、「我ら」の第一の相手は神様です。その名が愛の神様は、その破れはいかんと「我らの」幸せに向けて様々な形で行動に出られる方であることを、信頼して良いのです。皆さんも、これは主の呼びかけではないかと思うこと、あるのではないでしょうか。赦しなしでも幸せに生きられると本当は思ってないだろう、破れた自分!の正しさで幸せになれるはずはないだろう、その滅びに向かう道を、わたしは止めると、罪と滅びを引き受けて死なれた神様が、止まれ!この十字架で赦されて共に生きようと、罪で破れた世界に向かい、呼びかけ続けておられます。わたしは主、あなたと共にいる神、神我らと共にいますインマヌエルの神だから(1:23)、わたしのもとに来て、赦しのいのちを得なさいと。

先ほどから破れ、関係の破れと繰返しているのは、それが罪の赦しを祈る上で、赦し赦されて共に生きる幸いを求める上で、どうしても必要な理解だからです。でないと「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く」と祈る時、それは自分!が神様に赦されるための条件だと誤解しやすい。つまり律法主義的に、自分!が救われるための条件が赦すことだと。

だから、かもしれませんが、この御言葉は「罪」と言わず「負い目」と言います。相手に損害を与え、自分が相手に返済義務を負う「負債」。損害賠償として相手に負う「借金」です。つまり、相手がいるのです!罪も赦しも、自分!の問題である前に、相手に与えた損害、相手に負う負債であって、その相手との関係を、何故その損害で破いたのか、何で自分自分なのかと怒られるのが、我らの父を苦しめる罪なのです。でもだからこそ!その破れを御子が引き受けられて、わたしが代わりに弁償し切って埋めますから、父よ、赦して下さいと死んで下さった。関係の破れを取り除いて下さった。だから十字架の主を信頼して「我らの父よ」と呼ぶ者たちは、父から、我らの関係の破れは取り去られた、あなたはわたしの子だと呼ばれる永遠の関係の中で、共に生きられるのです。

でもそれは父との関係だけではなくて、主は、罪を犯されたあなたも、この赦しに生きなさい、自分の幸せが破られたと怒り赦せんと思うかもしれんけど、「我ら」の幸せのために赦しに生きよう、こう祈りなさい、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」と教えて下さった。

相手を赦すことは、私自身もし赦されなければ生きていけないことをわきまえている、また、わきまえて生きたいと祈り求めている信仰の、目に見えるしるし、証拠です。赦しが自分のこととしてわかる。赦されないと生きていけないとわかるから、十字架の主の御前に立ち、自分の罪を赦された者として、私もこの人と赦しの中に生きたいですと、主の赦しの中に立てる。赦されて赦して立ちたいのです。

ただ、このことはマタイ自身もう一度14節15節で念を押すほどに!でも赦さなくても救われるのでしょうと、どうしても自分のことになりにくい「我らの父」に生きる急所なので、また改めて説き明かします。

罪で「我ら」が破れて、我らの父が求められる幸いに生きられない。でも破れたままは嫌だと、罪に抗って、キリストを求めるのです。何度も言いますが、「我らの父」が子なしでは父になり得ないのと同じように、相手を赦さないと我らになれない父の子として「我ら」の破れに立ち、我らを負われた主の前に立つ。そして、罪の破れも赦しの痛みも、父はこんなにも負って下さったと、我らの父の愛の中に立って生きるのです。