マタイによる福音書6章10節、詩編103篇17-22節「見えなくなっても御心」

23/9/10主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書6章10節、詩編103篇17-22節

「見えなくなっても御心」

「御心が行われますように」直訳は「あなたの望まれることが成されますように」。あなたとは、私たちが父の子と成されるために三位一体の御子を代わりに死なせられた、我らの天の父です。父が「我らの父」と成るために、何をしてくださった、どんな父なのか。その御名があがめられますようにと祈っての、父よ、「あなたの望まれることが成されますように」です。譬えるなら、この人が誰かは関心ないけど、お母さん、ご飯何?と言うのと、私のためどんな苦しみを耐えてくれた母なのかを思っての、お母さん、ご飯何?は、呼びかけも信頼も違ってくる。

我らを御子の十字架によって償って下さった父よ、「あなたの望まれることが成されますように」。その望まれることは自分が望むことではないかもしれません。でも私たちを、5章の御言葉で言えば地獄の裁きから御子の犠牲によって救い出して下さった父の望まれることだから、そう信頼してますから、自分の心が苦しくて嫌だ嫌だと泣きわめきたい心でも、その私の心に、父よ、あなたのご支配をください、御国を来たらせたまえ、あなたの望まれることが成されますようにと祈る。

その祈りを私たちは既に祈ってきたのではないかと思います。また、だからこそ、こう祈りなさいと、主が弱い私たちを支え、大丈夫、この祈りの道で良いと、共に祈って下さっているとも言えるのです。

私たち、大事な決断をする時に、御心を示して下さい、と祈ることがある。それは、示されたら、その父の望みに、はいとお従いしますからという祈りだと思います。示されて、もし自分の嫌な道だったら、結構です。いや(笑)お母さんのご飯なら、じゃあ自分で好きなもん作りなさいと言われて、ああ結構と言うことも、ある?(笑)でも御心を祈り求めて、示されたと思った道が、自分の望む道ではなかった時、そんな簡単にはいかない。そもそも父が、じゃあ自分でやれと自己責任にする父ではないからこそ、御子によって私たちを背負われるのです。でも、自分が好きなものでないと嫌だ。この思いも簡単に捨てられないから、御心がわからんなるということがあると思うのです。

イエス様が、御心の「天になるごとく」と教えて下さったのは、天では先に読みました詩編が示す如く、御使いたちが父の示された御旨を、はいと行うからです。問題は「地」です。自分が好きな道でないと嫌だ。それを厳しくも優しく躾けられるお母さんもおられます。その道を行き続けると自分がどう成るか、わかっているのかと。先週、御国を求めるとは、自分自分の罪の支配から、悔い改めて、父の憐れみのご支配に身を置く祈りだと申しました。地の問題は、罪の問題です。罪に従うな、あなたを罪と滅びから救うことをこそ望まれる、父の望みに生きることを求めよ、そう祈ろうと主は言われるのです。

父の御心に生きる上で知っておくべき整理の仕方を少し説明します。先ず、絶対に変わらない父の御心がある。それは私たちが罪と滅びから救われることです。迷い出た一匹の羊の譬えで主は言われました「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(18:14)。だから御子が死にに来られた。これは絶対の御心です。ちょうど夕拝で聴いているテモテで言えば「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(テモテ一2:4)。

そしてそのために父は、御言葉によって御心を示されている。だから御心に生きるため御言葉に聴く。無論わからない内容も多い。ただその理由の一つに、え、こうあるべきじゃないが!と自分が正しい!と思う筋道で考えるから、つまずくことがある。敵を愛しなさい、とか。でも、つまずき、わからなくても、すべて十字架の救いの御心の内にある。

最後が具体的な進路。父が望まれる道を、御心を示しお導き下さいと祈り、聖書的に判断し選んでも、例えば私が妻を選んだのは御心だったかというのは、ハッキリ言います、わかりません。だからこそ!選んだ道を御言葉に従って、例えば「妻を愛しなさい」、はいと歩む。

でも、です。御言葉が義しいとわかっていても、父の御心はすべてが救いの御心の内にあるのだとわかっても、自分の弱さ故、わかっている御心が、わからなくなってしまう。こっちは嫌だと思う方向に道が進み、でもそれを嫌だと思うのは御言葉に示された御心に背くことじゃないかと悩んで、それでも嫌だという苦しみが強くなって、御心に従いたいと望む心が麻痺したら、何が神様の望みなのかもわからんなってしまう。どうして父なのにと。何で私が何で何でと苦しみが心を支配するその時にイエス様が、わからんままでいい、一緒に祈ろうと共にいて下さる。大丈夫、わたしの勝利があなたを支配していると、わからなくなっても変わらない、決して変わることのない父の愛と救いの御心の内に、主が私たちを背負い導いて下さっているから、主ご自身が祈られた祈りを、主と共に祈るのです「父よ、あなたの御心が行われますように」(26:42)。

復活の日、すべてはこのためだったと主と共に喜んでわかるのです。