マタイによる福音書6章7-8節、創世記28章10-17節「くどくど言わない信頼」

23/8/13主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書6章7-8節、創世記28章10-17節

「くどくど言わない信頼」

「思い込んでいる」。よくあるんじゃないでしょうか。友人は長いこと曖昧という漢字をダンミと読んでいました(笑)。わかる!すごくわかるけど、思い込み。皆、あるんじゃないでしょうか、思い込むこと。

祈りは言葉数によって、より聞き入れられると思い込む。イエス様はおっしゃいます。それは言わば異邦人のように神様がどういうお方かを、知らないから、そう思い込んでしまうのだと。

思い込みにも色々あります。一つは単なるやり方の思い込み。幼い頃、足腰を鍛えるやり方はうさぎ跳びでした。根性は鍛えられる。でも足腰は痛めます。思い込み。祈りも長く祈るやり方の方が、より聞かれると思い込み、信仰を痛めることはないか。長く祈る信仰を鍛えようとして挫折し、自分は信仰が弱いと思う。逆に長く祈れたと自己満足するのも、祈りは、このやり方でないと!と思い込んだ結果ではないか。信仰だと思っていたけど実は根性だったという思い込みもある。今日の御言葉で信仰という言葉はイエス様、用いておられません。でも、おっしゃっている事柄そのものは、あなたは祈る相手を誰だと思っているのか?誰であられると信頼しているのかという、信仰で一番大切な急所なのです。

単にやり方の思い込みだけなら、正しいやり方を学んで、新しく身に着け直せば良い。つまり自分の話だけで済むのです。

しかし主は、祈りの問題は、神様に対する思い込みだと言われます。自分の話だけでは済まない。相手がおられる。父との関係の話になる。自分がいかにちゃんとやれるようになるかという、やり方の話ではないのです。自分だけの話ではあり得ない。それが「あなたがたの父」への祈りだ、祈りは、あなたと父との信頼関係の話だと言われるのです。

祈る時、私たちの心はどちらに向くでしょう。祈りのやり方や内容や時間、熱心さか。それとも私たちが向き合って近づいていく、天の父のお気持ちを、心を開いて思うのか。私はその子だと、父を思うのか。

イエス様は、あなたがたの神とさえ言われず「あなたがたの父!は、あなたがたが求める前から、あなたがたが持っている必要が何であるか知っておられる父だから、神様がどんな方かを知らない者と同じ祈り方を真似してはならない」と、父のお気持ちを私たちに知らせるのです。祈りで何よりも大切なのは、私たちが神様に如何に向き合うかに常に先立って、私たちに対して、常に私たちの父として向き合われ、私たちの必要を知っていて下さる方に、父よ!と向き合うことだ。あなたのことを誰よりも深く知って愛しておられるあなたの父の前に、あなたは祈る前から、もういることを、愛されて、あなたは生きているということを知りなさいと、その父から遣わされてきた限りなき赦しの十字架の主が、さあ父に祈ろうと招かれるのです。あるいは三位一体の御子によって、父が!私たちを招いておられるとも言えるのです。

私たちが求める前から、父が私たちの持つ必要を知っておられるというのは、単なる知識ではない。愛する我が子に深い関心と同情をもって、できれば自分が代わりに苦しんでも良いとさえ思って知っておられる、愛の関係の知る以外で、父は私たちを知っておられない。

だから私たちが求める前から、父はその関係が愛で満たされることを父として求めておられる。親子の信頼と愛のキャッチボールを。それが信仰だと言っても良いのです。信頼は言葉に現れ、求めに現れる。人間の親子関係でもそうでしょう。私も一人の父親として、父のお気持ちがわかる時があります。無論、罪人だから不完全ですけど。子が学校や塾から疲れて帰ってきて、お父さん、もし疲れてなかったら、寝る前に足もんでくれんと、遠慮気味に言われる時がある。その時、私はこの子の父なのだと誇りを感じます。父は子なしで父ではありえない。子あってこその父とさえ言える。その自分の子が、父に足をもんでと頼む気持ちと必要を、私は不完全だから想像するだけです。それでもわかる。言葉からわかる。親なら子の必要を知っていて当然だなんて態度ではない。もし疲れてなかったらと、それでも子が頼む時、父は頼める父だと、私は我が子から信頼されているのだと心から誇りに思う。まして天の父は!私たちが、父よと頼って、父を我が父として信頼して、御前に進み出て祈る時、どれほど、私たちの父としての!誇りと栄光に満たされることか。イエス様は、それがあなたがたの父、我らの父だと、同時に子としての誇りに満たされながら、だからこう祈ろう、天にまします我らの父よと、父を父として持っている信仰の喜びへと招かれるのです。

だから、くどくどの祈りにも、事務的な短い祈りにもならなくてよい。言葉の多い少ないは関係ない。ただ父と子の関係を満たす、信頼の顔を父に向け、必要を打ち明ければよいのです。自分には祈る信仰がないと思い込む必要もない。そこから自由にされる必要をこそ父がご存じで、そのために与えて下さった、御子に背負われて祈ればよい。その祈りは聴かれます。その信頼に、恵みの父が心を傾けておられるからです。