マタイによる福音書6章5-6節、列王記上19章9-13節「祈りは父との向き合い」

23/8/6主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書6章5-6節、列王記上19章9-13節

「祈りは父との向き合い」

祈る時、私たちはそこで何をしているのでしょう。人前であっても。自分一人であっても。いや、本当に自分一人なら独り言に過ぎません。挨拶する時を考えると分かりよいでしょうか。必ず相手がいるのです。

では挨拶する時、何故、挨拶するのか。なすべき正しいことだからが、もし、真っ先に意識される答えなら、挨拶された相手は、挨拶した人の正しさより後ろにいることになります。その人が正しいことを行うための、ああ自分は手段なのだと思う挨拶って、もし、あると怖いです。

祈る時、イエス様がおっしゃるのは、奥まったところの穀物をしまう倉庫のようなところに入って、戸を閉めたら光が入らなくて、自分さえ見えない。人から見えないどころか、自分からも自分が見えないところ、あなたの父だけが、あなたを見ておられるところで、父に祈りなさいと言われるのです。暗い部屋でなくても、目を閉じて、父に顔を向ける。また挨拶を考えても良いのです。礼拝に来て皆に、おはようございますと入ってくることはあります。でも祈りは、ただ父に向き合う。

何故、神様と言われず「あなたがたの父」とイエス様が言われるかは、主の祈りの説教で詳しく説き明かしますが、改めて考えて欲しいのです。父は子なしには父になれません。あなたの父に向き合いなさいと言われる時、イエス様は、あなたは父と自分の関係の義しさを求めているか、父が父としてあなたを見ておられるお気持ちあなたの父のお心を思い、わきまえているかと求められるのです。

祈る時、おそらく多くの人は、求めがあって祈ると思います。家族の救い、苦しみからの解放、御心への導き、様々な求めを、お願いしますと父に祈る。求めについては、この後、イエス様が繰り返し、主の祈りでも、また「何よりも先ず神の国と神の義を求めなさい」でも、つまり、父のご支配と父の義しさを求めなさい、更に「求めなさい、そうすれば与えられる」と強調されますので、今日はその求めの入口、祈りの入口の一点に集中します。入口を間違えると、人前で正しく祈ろうとしたり、自分の前で自分の目に正しい為すべきことをしたり、向かう先、目的を違えるからです。それが6章1節の、おさらいになりますが、直訳は「人に見られるために、人前で自分の義しさを行わないように注意しなさい」の、祈る時に注意せないかん急所だからです。自分で自分の祈りを見てキリスト者として正しいことをしたなどと自己満足したりせんように。自分を見ないように。父が私を見ておられること!父の前に出ることに体も心も集中する。そこが祈りの入り口です。我が子を求められる父に向き合うことに集中する。人の目からも自分の目からも距離を置く孤独な祈りを、父の前に出て持つのです。

孤独な祈りと言っても、先に言いましたように、自分一人の孤独ではありません。父と私という関係の義しさを義しく保つために、その間に他の人の目を入らせない孤独です。自分は正しいことをしているという思いも、愛と信頼の関係を自己満足で汚し、父は悲しまれます。父と子の信頼関係が義しく満たされなくなるからです。夫婦でも、親子でも、一対一で、人の目に正しいことではなくて、あなたの思いが聴きたい!あなたを知りたい!あなたと愛と信頼の関係を持ちたいと向き合う時を持たないまま日が過ぎると、関係が満たされない。疎遠になる。距離ができる。愛と信頼の関係に。何故か。孤独な関係の義しさは、愛と信頼の一対一の対話で満たされて、その関係が保たれ、成長するからです。それは人間関係だけではない。そもそも三位一体の神様の形に創られた私たち人間にとって、先ず必要なのは、我らの父との一対一の愛と信頼の対話によって、その関係の義しさ、我らの義しさ、父と子の義しさが中身を伴って満たされることです。その一つが、父との一対一の対話、祈りなのです。その父と子の関係の義しさは、その私たちを赦し罪から救うために、御子を十字架で身代わりにしてくださった、父の憐れみの義しさからしか、始まらない。その父の義しさが、我らの救いの義しさ、父のもとで共に幸せに生きられる我らの義しさだから、主は言われたのです。何よりも先ず、父のご支配と父の義しさを求めなさい(6:33)。

改めて、私たちは祈る時、そこで何をしているのでしょう。我らの父との愛と信頼の関係の義しさを、一対一の対話で満たしているのです。父に集中して。御心がなりますようにと。御子を犠牲にされてまで父が求められた御心が、私たちと父との救いの関係が、その一対一の対話の中で実現していくからです。

その一対一の孤独な祈りの中で、無論、人々の執り成しも祈るのです。人前では遠慮する具体的な罪からの解放も。祈る者自身、夫婦の間でも言えない罪の悲しみを知る者として、その罪を赦された者として、人前での正しい仮面なんか外して、父よ!と祈る、祈ることができる!のは、その私たちを見ておられる父が、預言者エリヤに、静かに囁かれるほど近く親しくいて下さっている父が、祈る我が子に報いて下さるからです。