マタイによる福音書6章1-4節、申命記14章27-29節「善い行いは誰のため?」

23/7/16主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書6章1-4節、申命記14章27-29節

「善い行いは誰のため?」

人の目を気にして、人から善く思われないと、と思って生きるのは、重荷になり疲れます。その重荷を降ろしたいと礼拝に来ることもあると思います。人の目に振り回されるのはおかしいと思って、かと言って、自分中心に生きるのもおかしいと思って神様のもとに来る。自分からも人からも自由になる、神様の救いを求めて、導かれて来るのです。

「善行」と訳された言葉は「あなたがたの義」という言葉です。正義の義。「あなたがたの義しさを、人から見られるために、人前で行わないよう注意しなさい」。誰が認める義しさなのか。そこが急所です。

善行と訳したのは、日本では善行を積むと救われると考える人が多いと思ったからかもしれません。当時のユダヤ人も2節の「施し」5節の「祈り」16節の「断食」を行う人は義人、義しい人だから救われるとの勘違いが多かったようです。神様との信頼関係の故でなく、恵みによる関係でなく、善行で神は救うと。だからイエス様が、違うろう!神様は「義しい者にも義しくない者にも雨を降らせてくださる」「あなたがたの天の父」じゃないか(5:45)。行いの義しい義しくないで人を見て捨てる人間のように、憐れみの義しくない、そんな義しくない救いは、わたしを十字架の救い主とした、あなたがたの天の父じゃないろうと、自分を捨てて私たちを救われる神様が言われる。それがこの6章です。

主が注意しなさいと言われる「あなたがたの義しさ」は、二重に理解できます。オセロの表裏のように良い意味にも悪い意味にもなる。何が私を救う義しさだと信じて、その義しさに生きているか。それが「私の義」ですから、もし、人に評価されることが、自分の正しさなら、もう人から報いを受けていると主は言われます。自分は正しく見られたいと態度や行いでラッパを吹き吹聴しなくても、自分で、自分の義を見て、自分の「右の手がすることを左の手に知らせて」自分で満足するなら、やはり報いは自分から受け取っている。自分で自分の正しさを見て満足したい。よくわかることだと思うのです。私が自分の書いた「かわら版」を何度も見ている姿をコミカルに思い描いて(笑)憐れんで下さったらと思います。天の父から報いを奪う悲しい自己満足。本当は私に、良くやったと報いたい天の父に、ごめんなさいと、たびたび思うのです。

主は、6章と密接につながる御言葉で「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。あなたがたの心良い行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(5:16)と言われました。これも、もし、それを行う自分!の正しさを、光と勘違いするなら、「偽善者」の光を、これが神の救いだと見せかねません。偽善者。仮面をつけた役者という言葉です。自分は正しいという顔の上に、これが神の正しさだと見せる仮面をかぶって演じても、それこそ立派な正しさには見えたとしても、そこに十字架の憐れみの義しさ、永遠の御子を私たちの身代わりに地獄の火で裁き死なせてでも罪を赦して救われる、父の愛の義しさが見えんのなら、そこに我らの父の心良い光は見えない。見えるのは立派な自分。それが悪い意味での「あなたがたの義しさ」自分!の義です。

でもその私たちの罪を御子の犠牲によって償い赦して、神様の子供として完全に永遠に受け入れて共に生きて下さる神様の義しさに、はい、その憐れみの義しさをこそ、私が救われて生きる義しさと信じますと、感謝して、これに生かされて生きる義しさがある。それが良い意味での「あなたがたの義しさ」です。

この義しさは、自分は赦されなかったら救われ得ない私なのに、その私を、なお神様は愛して赦して下さったと、心の貧しさから神様に心が向く信頼関係の義しさです。だから神様より人を意識したら、また自分になる。

でも施しとして例えば献金する時、ロボットが回って来るのではないですから(笑)、献金奉仕者がおらんかのように無視はしない。人に優しい言葉をかける愛の業も、無論その人に優しくするのです。ただ、人から見返りを求めんのです。優しくしたのに、思った反応がなくても、その人を愛してやまない天の父を見て、憐れみと祝福を求めればよいのです。自分は正しいことをしたと自分で報いずとも、その愛の業は、父が見て下さっているからと、自分の思うようにいかなかった愛の悲しみも、父が報いて下さるからと、父に向き合って、人前でも自分の前でもなく神様の前で、あなたが私たちを愛し救われる私たちの義しさですと、常に神様に向き合って生きればよい。人を見て自分を見て腐りそうな時には「義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされるから」と主が約束して下さった幸いな義に私は飢え渇いていますと、主を仰げばよい。人の罪が見えて苦しい世の中で、主よ、憐れみたまえ、我らを憐れみ、罪から救い出して下さいと、それでも我らを背負って救われる神様の義に、飢え渇けばよい。その私たちを主が愛し捕らえて下さって、アーメン、はっきり言っておく、それは父の御心だ、この義しさに共に生きようと、常に共に歩んで下さるから、主と共に、主に背負われて、どんな時にも、父の御前に生きるのです。