マタイによる福音書5章31-32節、創世記2章18-24節「法的手続きに優る結婚」

23/6/18主日朝礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書5章31-32節、創世記2章18-24節

「法的手続きに優る結婚」

何故「姦淫を犯すことになり」「姦淫を犯させることになる」のか。

その根源的な理由が先に聴いた創世記の御言葉です「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」。そこから世界が共に造り上げられていき、あるいは崩れる。世界の基礎部分がもしバラバラだと、その基礎の上に立っていく世界も崩れる。その名を愛と呼ばれる三位一体の神様が世界に求められるのは、自分自分のバラバラでなく、共に生きる愛と信頼の関係です。だからその基礎は一体です。人間世界で唯一排他的、他を排する、聖なる一体の関係です。それは死が二人を分かつまで、あるいは「不法な結婚」と、ここでは訳された不品行の罪、つまり結婚を殺す姦淫で破られないなら、手続きで一体を分かつことは本当はできない。これ同じことを19章で詳しく言い直します。それほど大切で、また、それほど分かってもらえない御心が、共に生きるという神様の本質であり、なのに共に生きられない罪の本質なのです。

なので、夫はまだ生きちゅうのに、その夫から離縁され、特に当時は女性が独りで生きるのが更に困難でもあったから再婚することになった女性は、でもまだ一体である夫が生きているから、その女性を妻にする男は「姦淫を犯すことになる」と主は言われます。

ただ、これは先の創世記からの神様の変わらない結婚への御心から、何故か、一体だからだと説き明かしました。が、イエス様がここで強調して私たちに見つめさせる焦点は、もっと具体的です。何故その女性を妻にする男は「姦淫を犯すことになり」、また!何故、自分の妻を離縁する夫は「妻に姦淫を犯させることになる」のか。その理由をイエス様は「しかしわたしは言っておく」と神様の権威で強調されて言われます。それは夫が、一体である妻を、離縁したからだ。

この御言葉は、すぐ前の「姦淫してはならない」と一続きです。何故、姦淫してはならないのか。一体を殺すからです。そのすぐ前の「殺してはならない」から続くのです。殺してはならない。言葉や態度であなたは神様からも愛されてない、バカめと呪うのは地獄の罪だと言われた。また結婚によってのみ自分のもの、一体となる人以外の人を、心の中で自分のものと欲するのも地獄の罪だから捨てろと言われた。それほどの罪だから十字架で代わりに棄てられに来て下さった主が、捨てろ、誰も殺すな、結婚も殺すな、聖なる一体を殺してはならない、神様が私たちに望まれるのは共に生きる愛と信頼の関係だから、その基礎が結婚関係である世界を、どうか殺してくれるなと、自分自分の罪に殺される世界を、背負われた主が言われるのです。

なのに姦淫を犯し一体を殺してしまう罪と破れ、叫びだらけの世界で、結婚相手に姦淫を犯されてないのに、相手を捨て結婚を破れば、相手に何をさせることになるか、考えたことがあるかと主は問われるのです。あなたと一体である人に、あなたは姦淫を犯させることになる、地獄の重さを負わせることになると、必死で訴えられるのです。

主が求めておられるのは、自分を捨ててでも、愛と信頼の関係に共に生きること。それよりも自分を愛する罪、捨てて、そのために自分を捨てられた主の憐れみのご支配、愛の関係に、はいと生きる恵みです。

でないと、だって相手が悪い、神様が悪い、あなたがくれたこの女がと自分を愛する怒りと言い訳で、関係も自分も滅ぼすのではないか。

世界最初の破れを改めて考えさせられるのです。アダムは、共にいた妻が、罪に手を伸ばすのを見て、夫として、妻を愛する者としての手は差し出したのか。妻から渡された実には、手を出して食べたのに。何故それなのに、神様から「取って食べるなと命じた木から食べたのか」と問われて「あなたが私と共にいるようにしてくれた女が」と自分を守る言い逃れをしたのか。一体の私たち!でなく、自分!を守って、神様が共に生きるようにさせたからと。アダムは自分が何を言っているのか、分かっていたのでしょうか。共にいる自分と一体である相手の気持ちを少しでも思って言ったのか。自分のことだけ…それが罪の本質なのです。

神様さえ言い訳にして、あるいはキリストの赦しさえ言い訳にして、自分がこうしたいと欲していることに心を奪われ、御心も関係も失い、だって自分は!と正気を失った罪ゆえに地獄に棄てられる。その裁きを、だから神様が、私たちから奪い取るように、正気を失われたかのように十字架に釘打たれて、誰も棄てられるな、誰も死ぬなと、代わりに棄てられてくださって、だからあなたも誰も棄てるなと、必死で執り成してくださるのです。誰にも、地獄に棄てられる罪を犯させてはならない。だってあなたも棄てられたくはないだろう、嫌だろう!と、人となられた神様が、嫌だ、何故わたしを捨てられたのかと、叫び泣きながらでも身代わりになって下さったから、ごめんなさいと、信じてやり直せるのです。ごめんなさいと赦されて、和解の道となって下さった主の前に、共にひざまずく恵みに生きられるのです。(5:24、5:16)