マタイによる福音書5章13-16節、イザヤ書60章1-7節「天の父のこころよさを」

23/5/21復活節第七主日礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書5章13-16節、イザヤ書60章1-7節

「天の父のこころよさを」

そのために誰かを愛する。イエス様が私にして下さったように、私も優しくする。口には出さなくても、神様はあなたを本当に愛しておられるからという、ただその理由だけで。文句を言われることがあっても。ぜんぜん報われないと思っても。家族を、友人を、誰であっても、その人が神様から死ぬほど愛されている人だというだけで、父から愛されている人として、人として敬う。一人の愛すべき人間として向き合う時、いつか、教会に行こうかなと言ってくれるかもしれない。そして一緒に神様を賛美して、やがて洗礼を受ける時が来たら。イエス様は言われるのです。そのためにわたしは来たし、あなたを、そのための地の塩、世の光として遣わした、本当に良かったねと、きっと一緒に泣いて喜んでくださる。そのために御子を、地に!与えて下さった天の父も。

私たちを救い、共に生きるために、神様が!自分を捨てて下さった。その愛を、はいとあがめるから、私たちも自分を捨てて生きる。その愛の業を「立派な行い」と言うと、何かお行儀良くないといかんのかなと私は感じますが(笑)、聖書の言葉のニュアンスだと「こころよい行い」。こころよい命の態度とも言えるでしょう。心に良く感じる。英語のgood。その柔和な愛の生き方を見たら「気持ち良い」行いのことです。

友人と話をすると、しょっちゅう同じ話題になります。二人とも妻に言われる。機嫌悪くても家では機嫌良くしててと。で、そうすると妻も子供も喜んで、結果、自分も嬉しい。あほやねゃ俺らとお互い照れ笑いするのです(笑)。いつもはできない。でも知っているのです。何が心に良く感じるのか。自分を捨てる愛で愛され、また愛する、心良さを。

私が天の父をあがめるようになったきっかけも、留学時代、同じ寮のキリスト者たちが、スピークスローリーと何回も何回も繰返す私を毎日ごはんに誘い続けてくれた。きっと一緒にいて楽しくなかったろうに、笑って一緒にい続けてくれた。祈り続け、愛し続けてくれた。

こころよい行い。創世記1章で、神様が世界をお創りになられた時、そのすべてをご覧になって「見よ、それは極めて良かった」(31節)と告げる良さ。神様が喜ばれる、父の子として共に生きる心良さを見て、これが私の帰るべき道だと、心が父に向くとも言えるでしょう。この後17節以下は、その共に生きる愛の心良さが、そもそもの律法だったろうと、主が説き明かし直されている御言葉です。自分を捨て、共に生きる愛の話なのです。契約の愛、つまり関係の!愛。隣人と共に生きる愛。慈しみ、こころよい優しさが、律法の教える義であったろうと。

その心良さが、でも、自分は!の態度になるとわからんなる。自分の義、自分の義しさが良い!んだってなって、天の父の御心の心良さが、わからんなるのが「塩気をなくす」こと。直訳は、塩が「愚かになる」。日本語でネジが馬鹿になったと言うのと同じ。ネジの役は、何か二つをしっかり繋ぎ止める、「そのために創られた目的」を果たさなくなるのが「愚かになる」塩気をなくすという言い方です。

主の祈りで「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈ります。地が、世界が、父の子として共に生きる心良さを失って、自分が誰かも神様がどなたかも幸せが何であったかもわからなくなって、あるいは私たちも自分の人生!と塩気を無くし、逆に自己主張しても食材が塩辛くなって本来の味が台無しになって、せっかく神様に、心良いはずの共に生きる命を与えられたのに。地は、その心良さを失って馬鹿になって、心良い父の御心が、ならんのです。本当は皆、知っているのに。自分を捨てる愛で愛される心良さを、そして愛する心良さを。だからその愛を見たら、光が照っていると思う。その愛で、私たちは本当は誰であったかを、命の本来の心良さを知る。私も愛の形に創られたのかと。神様を信じて良いのかと。私も心良く生きたいと。罪を責めないで、代わりに自分が痛みを飲み込んででも、優しく接してくれる、愛してくれる神様の愛と救いに、私も救われたいと、きっと世界はわかってくれるから、わたしはあなたがたを、そのために世の光、地の塩として、あなたがたが生きるこの地に遣わした。我らの父の御心が、この地になるように!一緒に生きよう、祈り求めよう、わたしがあなたがたと、必ず共にいるからと、十字架でご自分を捨てられた主が約束されるのです。あなたの愛する者たちも、あなたがたが既に味わっている主の恵み深きことを、その愛のもとで生きる心良さを、我らの愛で、きっと味わうからと。

そのために、天の父は、すべての教会を、天と地の間にある山の上の町のように、すべての人が見ることのできる、十字架の光の教会として立てられました。実際に私たちの会堂は丘の上に立っていますが、会堂を見て見てと指差さなくてよいのです。この地に、私たちのもとに既に来られたキリストを見てほしいと、十字架の主をあがめ、自分を捨てるこころよい愛の光を、貧しいながらも照らせばよい。そこにキリストがおられます。隠れることのできない、光がそこに照らされるのです。