マタイによる福音書5章9節、イザヤ書52章7節「キリストの霊的DNA」

23/4/30復活節第四主日礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書5章9節、イザヤ書52章7節

「キリストの霊的DNA」

「平和を実現する人々は幸いである。」ならそこには、両者の間に平和が実現せないかん関係の破れが、あるのです。平和はユダヤの言葉ではシャローム。その基本的イメージは、欠けがないというイメージです。なら平和がないのは、何かが欠けている。そこにあるはずの愛の関係が、何か具体的な罪で、欠けて破れている。言葉や態度による暴力も、関係を壊し、穏やかに話し合えなくなります。間に欠けがあり、そこに怒りや不満、復讐したい勝ちたいと言う思いが募る。ごめんなさいが欠け、口で言われても信頼できんと、信頼関係が破れたら、そこに欠けている信頼を、他のもので埋めても、信頼関係は欠けたまま。

相手を信頼したいと思う気持ちがないわけじゃない。でも裏切られた信頼の傷が痛む。また苦しむのではないか。相手との間の、愛が欠け、平和がない距離に、苦しみを覚えるから、距離が遠いのです。それより自分が楽なほうを選びたい気持ちのほうが、苦しんででも相手との関係に生きる気持ちを言い負かしてしまう。相手の責任なのだから、自分が苦しみを負わなくてもいいだろうと、自分に負けてしまう。

だから、それでも苦しみを負って、相手との距離を埋めるため、自分が犠牲になってでも愛を信じ、共に平和に生きることを選ぶ愚かな人々は「神の子たち」と呼ばれます。神様ご自身から、あなたたちは幸いなわたしの子たちだと呼ばれるのです。その幸いを私たちに与えるために人となられた三位一体の御子が、そうやって私たちとの間にある破れをご自身の十字架の償いで埋めに来られた神様が、天の国、神様のご支配は、こうやって近づいたと、ご自分を捨てて近づいて言われるのです。あなたたちも自分を捨てるのか。あなたたちを、わたしは神の子たちと呼ぶと、ご自分と同じ呼ばれ方で呼ぶことを、主はためらわれません。むしろ、そこで平和な関係を取り戻すために私たちが負う、愛の犠牲を主は思われる。愛の苦しみを思われる。涙に同情され、共に泣き、共に喜んで下さって、愛の重荷を共に負って下さる。それが私たちの救いの苦しみを負われる神様、私たちの主イエス・キリストだからです。

平和を実現する人。英語でピースメイカーと訳されます。でも皮肉なことに、それはアメリカ西部開拓時代に大量生産された拳銃の名になりました。これで自分たちは自分たちの平和を作るのだと。もはや多くの人々はその銃を平和の名で呼ぶことを恥じて呼ばないようですが、実はこの言葉のギリシャ語の由来は、強大な武力と権力で世界を支配した、ギリシャ帝国大王アレキサンダーの呼び名であったようです。力による支配で平和を作る。自分たちの平和が実現するため、自分の思い通りにならない相手を、力で思い通りにさせて、平和を作るイメージの言葉。その言葉が用いられる人々は幸いだと聞いて、当時の人々は何を思ったでしょう。そうだ、相手が思い通りになれば、自分も平和になれると、自分の思い通りにならん人を打ち負かす支配を、あるいは思ったかもしれません。「神の子」という称号もまた、ローマ皇帝のため用いられた、人として現れた現人神という言葉です。その神の子の力があれば相手が自分の思い通りになり支配でき平和が作れて幸いになれるのか。

でもそれで本当に平和だと、この破れだらけの罪の世界で本当に平和と思えるかと問われたら、きっと多くの人が、いや平和じゃない、本当はそれは平和じゃないと、しょんぼり知っていると思うのです。相手が自分の思い通りにならん時、ピースメイカーと刻まれた銃のような言葉や態度で相手を撃って、勝とうとして、相手が変わったら平和になると思っては、平和の道を失ってきたのです。平和にならんのです。相手が変わったらという自分の思いを、あくまでも捨てないという態度で平和を求めても、相手も自分を捨てなくて、どっちが自分を捨てないか勝負をして、力対力、自分対自分。罪対罪。怒りと失望で平和も信頼関係も失う私たちの世界に、神様は自分を捨てに来て下さったのです。

自分は失っても良いから、だからあなたがたに平和があるようにと、苦しみながら、愛の痛みを負いながら、私たちの罪と滅びに、キリストは、ご自分を捨てて打ち勝って下さいました。そのことで私たちは愛を知り、平和を知ったのです。愚かにも、勝とうとしない平和が、相手を支配しようとしない愛が、信頼できる平和、信頼関係を共に築き上げていける愛なのだと。主イエス・キリストの十字架の勝利のもとで平和のイメージは変わるのです。そしてこれから、どう生きていけばよいかも変わります。キリストが命を捨てられて愛される隣人との間に、平和が実現するために自分を捨てて担う、どんな小さな愛の忍耐も、十字架の主は無視されないからです。その苦しみを担われた神様です。この杯を取り除けてくださいと泣いて祈りつつ、愚かにも、父の憐れみの勝利を信じて、御心がなりますようにと平和を実現して下さった救い主です。その愚かな愛の業に生きる時、私たちの平和の王となられた神様が共に重荷を負って下さり、あなたは幸いな神の子だと呼んで下さるのです。