23/3/12受難節第三主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書4章23-25節、詩編40篇6-12節
「歩き回り伝え癒す神様」
ここには教会がどのように始まって、また今もどのように教会は前進していくのか、その言わば原風景が、急所を突いて、ザックリ描かれています。シンプルなタッチの四コマ漫画のようにとも言えるでしょう。
一コマ目はイエス様がガリラヤ中を歩き回られた場面です。神様が!その神様を礼拝しておった会堂を巡り歩かれて、次はあの村に、その次は隣りの町にと、延々と歩いて歩いて回られて、礼拝で説教をなさって「御国の福音を宣べ伝え」られた。つまり、神様のご支配が近づいた!ほら、わたしがあなたのもとに来たその所に!神様の恵みのご支配が、もう始まっているから、今までの生き方から、神様に向き直りなさい、わたしについて来なさいと招かれる。そこに救いが始まるからです。
私たちも、同じキリストの招きの言葉、福音を、聴いて信じました。教会で、説教を通して、キリストが!わたしについて来なさいと招いて下さったからです。前の頁でイエス様に従ったペトロやヨハネたちも、その一コマ目で、うんうんとイエス様の福音を聴いておったでしょう。そこに私たちも、自分がイエス様といるのを書き込んでよいのです。
そしてペトロたちと一緒に、イエス様が民のあらゆる病と患い、または、軟弱さとも訳せる弱さを癒されたのを見る。それが二コマ目です。先に、この御言葉はザックリ急所を突いていると言いましたのは、この一コマ目の「教え、御国の福音を宣べ伝え」られたイエス様のお姿は、この後5章から7章の山上の説教と呼ばれる部分に先立って描いた導入だからです。そして続く8章9章で描かれるイエス様のお姿は、人々を癒して癒して癒される憐れみ深い神様としてのイエス様のお姿で、これを先んじてグッと描いたのが、癒しのイエス様の二コマ目。
では三コマ目は何か。24節で、このイエス様のことを聴いて、人々がイエス様のところに、色んな病気や苦しみに悩む人たちを連れてきて、イエス様が彼らを癒される。ここにも無論イエス様が描かれますけど、特筆すべきは、人々がイエス様のところに苦しむ人たちを連れてきた、その教会の原風景です。その原風景は後に中風で苦しむ人を四人の友がイエス様のところに連れて来た話で具体化されますが(9:2)、そうだ、これが教会の姿だと胸が熱くなるのです。私もまた、イエス様のもとに連れて行ってもらって救われた一人です。イエス様に癒していただいたと、その時の自分を振り返って思いもします。私もだと言われる方は、少なくないと思います。20年の牧会の中で、あの方も連れて来てくれた兄弟がいた。あの姉妹、あの兄弟もと、神様の恵みを振り返るのです。連れて来てくれた方が必ずしもキリスト者であるとは限りません。でも皆、イエス様のもとに連れて来られました。イエス様が、その人の病、弱さを負って下さいました。そしてイエス様に背負われて、受洗をされました。その洗礼を授けて下さった方はイエス様でした。そのイエス様から召され、御国の福音を託された牧者として改めて申します。洗礼を授けて下さった方はイエス様でした。その神様の恵み、御国の福音に、改めて向き直りたい。イエス様に!向き直って歩みたいのです。
それが四コマ目「大勢の群衆がイエス様に従った」。このラストの場面です。群衆ですから、色んな人がいます。それが教会の原風景でもあるのです。そこにペトロもイエス様に従っていて、四コマ漫画で言えば、あのイエス様のすぐ後におるががペトロやない?あ~ペトロっぽい(笑)と。でも特に今、受難節の歩みの中、ペトロで私たちが思い出すのは、イエス様から、ペトロ、あなたは神様のことでなく人間のことを思っていると叱られた姿。そしてイエス様を三度否定した、いや、そんなことしませんと言いながら、自分が思うようには従い切れなかった弱い姿。だからこそイエス様に背負われた!イエス様の十字架の憐れみによって愛し抜かれた、人の思いや人間の決意を超えた神様のご支配によって、十字架で背負い切られた神様から、ペトロ、わたしについて来なさいと招き続けられ、はいとイエス様に従ったペトロを思うのです。
イエス様に従った「群衆」という言葉も、エルサレム入城の時には、ホサナ、ホサナとイエス様に従いながら、5日後には「十字架につけろ」と叫んだのが群衆です。民衆と訳された民より、確かに群衆が相応しい現実さえあるのに、その群衆の中にペトロが見えるだけじゃない、誰がむしろそこにいないのでしょうか。イエス様に従いながら従い切れず、殺しさえする群衆を、しかしマタイはこの御言葉の二コマ目で紹介した8章9章の最後に、イエス様が見つめる者として描きます。苦しむ人々を癒して癒して癒される神様が見つめる群衆として、こう描くのです。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒された。また群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」だからその牧者となられたのです。ご自分の命をあげてでも救い、癒し、導く神様として。その憐れみ深いイエス様に、教会はお従いするのです。