23/3/5受難節第二主日朝礼拝説教@高知東教会
マタイによる福音書4章18-22節、詩編22篇28-32節
「みんな呼ばれています」
「すぐに…残して…従った」。ペトロたちも「すぐに…捨てて従った」。元の言葉で「残して」「捨てて」は同じ言葉で「置き去りにして」です。つまりイエス様は置き去りにせず、はいとお従いした。すぐ前の17節で「悔い改めよ、天の国は近づいた」つまり神様に向き直りなさい、神様のご支配が始まったからと呼ばれたイエス様に、はいと応える生き方が具体化したのがこの御言葉です。それまで自分が一番に向いていたのは、自分の生活のことだったのが、イエス様について行ったらよいのだと、そこで神様に向き直る生活が新しくなる。神様のご支配が自分の生活にグッと近くなる。イエス様と私の関係の距離の近さになるのが、神様に向き直る恵みの具体化だからです。つまりイエス様との生活が始まる!そこに救いのご支配が、うんと具体的に始まっていきます。
「すぐに」というのは、イエス様を一番にすると言い換えてもよいのです。好きな人を一番にするように。愛する人のことならすぐするように。つい勘違いし易いんですが、自分がすぐ従うかどうかは、ここでの急所ではありません。自分が!すぐ全部捨ててと。でもそれでイエス様のお気持ちは置き去りになるなら、自分!は捨ててないのです。
すぐに結果が求められる世界に身を置いていると、やるかやらんかの結果に目が行き心が支配され、神様の恵みのご支配であるイエス様との関係、お気持ちを大事にしてこその結果だと、つい忘れてしまうのかもしれません。でもイエス様は、こうせねばならないというファリサイ派の弟子を造っているのではない。すぐに捨ても従いもせんのはダメだと思うのは、恵みのご支配が来ている表れではなく、自分が頑張って!の人間の支配の証しでしょう。
「人を取る漁師にしよう」というのも、イエス様が!私たちを「人を取る漁師にして下さる」のです。言い換えると、誰が?人を取るのか。私たちを漁師として用いられる網元のイエス様が!です。網元って呼んでいいです(笑)。でないと自分で網を魚の前に投げて、ここに入ったら救われる、網は投げたと自己責任にして、取れない結果を、魚が入って来んきと魚のせいにしやしないか。ペトロたちは、それは漁師の態度やないき(笑)と、むしろ漁師として知っておったと思います。魚のせいにせられん。魚が好きで魚の身になって漁をせな、取れんでと。
その私たちの身になられた神様が、人となられて、十字架で人を救うために飛び込んで来られた。そのイエス様に従う思いは、では、どこから来るのか。自分からなら、神様のご支配はまだ来てないのじゃないでしょうか。御言葉は、天の国が近づいたと言われて、すぐさまイエス様のほうから私たちに近づいて来られたと、救いを具体化するのです。皆イエス様に呼ばれて、本当に近くに来た、神の言葉以外の何物でもない御言葉が「わたしについて来なさい」と招くのを聴いて、お従いするのです。そこに御国が来て、「わたしについて来なさい」直訳は「ここに、わたしの後に」と、すぐ前にイエス様がおられて、さあと身を低くして背負って下さる神様だから、はいと言える。自分の生活は、イエス様にお任せして、信頼できる恵みの神様に向き直って生きられるのです。
そこに教会の歩みがあります。イエス様と生きているその所に、神様の救いのご支配が始まっているからです。まだ完全じゃないから、赦しを祈ります。でもイエス様の名によって、イエス様が一緒に祈って下さっているから、自分のこととして、また隣人の身になって、我らの罪を赦したまえと、我らとして、イエス様と共に祈り、共に生きる。
そのイエス様の恵みを、人々の前に網を打つように証しして生きるのは、変な漁師の譬えですが、自分自身その恵みの網に捕らえられた者!として漁をする。イエス様が飛び込まれたように、漁師が網に飛び込んで、この網えいですよ、ここに神様の救いが、もう来ちゅうですよと、イエス様と生きる賛美に、祈りに、御言葉に、愛に、自分がを捨てて、ごめんなさいと何度も向き直り向き直り、イエス様と生きる。そこに、恵みに捕らえられた新しい生き方、新しい人生、新しい自分は、本当に気が休まりますと証しする、恵みの網が投げられているからです。
マタイは、イエス様がヤコブとヨハネに何と呼びかけられたかは記していません。網を投げていたペトロたちに「人を取る漁師にしよう」と呼ばれたなら、網を繕っていたヤコブたちには「人の破れを繕う漁師に」と呼ばれても、おかしくないかもしれません。神様を父よと呼ぶ恵みの関係が破れていて、父のご支配に生きる人生が破れた結果、人間関係が破れ、心が破れる罪の悲惨。その罪から私たちを救いに来られた十字架の主、復活のイエス様が、破れを繕って下さいます。そして父との愛の関係の中で繕い直され、父の憐れみを知って癒された教会の生き方を、主は同じ破れを負う人々が救われるために祝福し用いられるのです。
その神様のご支配に生きるのです。私たちを、恵みによって人を取る漁師とされる、恵み深いイエス様の後に、はいとお従いするのです。